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◆ 北 斗 七 星 信 仰    (2023/6/12)

「百ト一首」と「百人秀歌」の2つの歌集の歌番号を繋いでいくと、最初の歌番号に戻るグループがあることに気づき全ての歌について調べてみた。

「百ト一首」5番(以下、百番号)の「おくやまに」は「百人秀歌」の8番(以下、秀番号)にある。同じ番号の百8の「わが庵は」は 秀14にあり、その百14にある「みちのくの」は秀17だ。
「百5おくやまに秀8」−「百8わが庵は秀14」−「百14みちのくの秀17」−「百17ちはやぶる秀10」−
14首目で「百6かささぎの秀5」となり「百5おくやまに秀8」に戻って一つの環が形成されます。

そのように繋げていくと、最初の歌に戻り、環を形成する大きなグループが2つと 小さなグループが7つできた。そして「百人秀歌」だけにある4首の歌と「百ト一首」だけにある4首の歌がそれぞれに 結ばれて4つの流れとなった。

7つの小さなグループが北斗七星と関係があると仮定すると、2つの大きなグループは、 北斗七星がガイドする不動の北極星(北辰)と定家が愛した月を表している想定した。 「かささぎの渡せる橋」に基づいて4つの流れを「天の川、織女星と牽牛星」とした。

※歌人の前の数字は「百ト一首」番号です。
-5-8-14-17-10-16-9-13-12-15-18-11-7-6-  北辰 1,2,3,4 19,20 32
44 77 84,85
北 斗 七 星 六連星 スバル
-23-30-24- 貪狼星
-37-38-39- 巨門星
-40-41-42-45-43- 禄存星
-46-47-52-51-50-49-48- 文曲星 -21-22-27-36-33-26-34-31-29-25-35-28- 月
-54-55-59-63-68- 廉貞星
-57-64-67-69- 武曲星
-58-62-60-66-71-70- 破軍星
秀73-72-74-百74 織女星
秀53-56-61-65-75-82-83-87-93-98-99-百99 天の川
秀76-79-80-78-81-86-88-89-92-94-97-100-百100 天の川
秀90-91-95-96-101-百101 牽牛星
 
 
平安時代の貴族たちの生活リズムとして、起床した後、属星を七回唱えるというのがあった。北斗七星は七つの星で構成されている。 人間は、生まれた年によって、北斗七星のいずれかの星を運命にもち、それを信仰したり、祀ったりすることで、あらゆる災禍から免れ、 あらゆる願いが実を結ぶとされていた。属星は本命星とも言われ生まれた年によって決定される。 (現代に息づく陰陽五行 稲田義行 日本実業出版社2009)

26藤原忠平の次男である藤原師輔が残した「九条殿遺戒」(くじょうどののいかい)は、貴族としての心得を記した家訓であり、毎日起床後に行うべき事柄をはじめとする日常生活の作法, 宮廷に出仕する際の心得など生活全般にわたって細かい訓誡をのべており子々孫々にまで重んじられた。有職故実の九条流は、師輔を祖として76忠通へと摂関家が続き繁栄した。

97定家が残した50年以上にわたる日記「明月記」では、天文に関する記述が多くあり、その方面でも重要な資料的価値が大きく、 斉藤国治氏は「定家『明月記』の天文記録−古天文学による解釈−」(慶友社 1999)を残されている。


「拾遺集」 冬 1146 清原元輔
いざかくて をり明かして 冬の月 春の花にも 劣らざりけり
・さあ、こうして月を見て居りながら、夜を明かそう。冬の月は、春の花に劣らず美しい。
新 日本古典文学体系 7 小町谷照彦 1990年発行 岩波書店


「四季折々の季節の中でも、人が殊に心を惹かれる花や紅葉の盛りよりも、 冬の夜の冴えた月に雪の映えて見える空は、不思議に色のない眺めが身にしみて、この世の外の世界のことまで思いやられて、 趣が深くあわれも尽きることのないものです。これを興ざめなものときめてしまった昔の人の心の浅いこと」 (「源氏物語・槿」紫式部 円地文子訳)


……冬の夜の月は昔から興ざめなものの例に引かれておりますし、 ……ところが以前、私が斎宮の御裳着の勅使となって …………私はそれ以来、冬の夜の雪の降っている晩の風情が分かるようになり、 火桶を抱えていても必ず縁先に出て、外の景色を眺めるようになりました。(「更級日記・宮仕えの記 資通と語らう 時雨の夜の思い出」 菅原孝標女 校注、訳者、注解 犬養 廉) 新編 日本古典文学全集 新潮社 By JapanKnowledge Personal
 
 昴(スバル)  プレアデス星団の六連星(むつらぼし) 不動11首

冬によく見られるプレアデス星団にあるスバルついて言及した日本での最古の記録は、 平安時代に源順(911-983)が醍醐天皇皇女勤子内親王(904-938)の命で作成した百科事典「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)だと考えられている。 この中で、昴星の和名は須波流と記されている。

古くからプレアデス星が糸を通して集めた玉飾りのように見えたことから「統(す)ばる」の意味ですばる星と呼んできた。 玉飾を糸でひとくくりとしたものを「万葉集」で「須売流玉」(すまるのたま)、 「日本紀竟宴和歌」(にほんぎきょうえんわか)で「儒波窶玉」(すばるのたま)などと呼んだものと同様らしい。
1
天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露にぬれつつ
2
持統天皇
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
3
柿本人麻呂
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
4
山辺赤人
田子の浦にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
--- --- 19
伊勢
難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこの世をすぐしてよとや
20
元良親王
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
・・・・      ・・     ・     ・     ・      ・・
32
春道列樹
山川に風のかけたる
しがらみは流れもあへぬ
紅葉なりけり
44
藤原朝忠
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも
恨みざらまし
77
崇徳院
瀬をはやみ岩にせかるる
滝川のわれても末に
あはむとぞ思ふ
84
藤原清輔
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
85
俊恵法師
夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり

 近代秀歌   (歌人の前の数字は百ト一首番号です)     ウエッブサイト「やまとうた・近代秀歌」参照 
近代秀歌とは、93源実朝(鎌倉右大臣)の求めに応じ、承元三年(1209)、97定家が書いて贈った歌論書です。
その中で、「35紀貫之は、歌の心は巧みに、丈は及びがたく、詞は強く、姿の面白い様を好みましたが、 余情妖艶の体を詠みませんでした。それらを詠んだのが12遍昭・17業平・9小町たちです。

詞は古きを慕い、心は新しきを求め、及びがたい理想の姿を願って、寛平の代(注)以前の歌を手本とすれば、 おのずから良い歌が出来ないわけがありましょうか。

35紀貫之たちの古今集的歌風の流れを受けたのちの歌人たちは、その心に向けて歌を詠みましたが、 近い時代の人々は、ただ思いつきの趣向を三十一文字に言い続けて、本来の進むべき方向から逸れて、 姿や詞の情趣を一向に理解しません。

しかし、71経信、74俊頼、75基俊、79顕輔、83俊成、84清輔たちは、寛平時代以前の古体を希求しました。 彼らの情のこもった姿の美しい姿は、仰ぐべき昔の代(六歌仙)にも匹敵するものではないか。」と、記しています。
(注)寛平の代とは、9世紀末(889〜898)の宇多天皇の代のことです。

また、吉海直人氏は、「だれも知らなかった<百人一首>」において、本歌取りについて記されており、 古注釈書で本歌取りであることを指摘している5例をあげ、さらに、定家が本歌取りを意識しながら選んだ可能性がある5例、 断言はできないが、そういう見方をすると面白い7例なども指摘されてます。

合計17組と1首あり、全部で35首(5X7)となり、偶然にも5の倍数です。本歌取りの手本としているゆえによく似た言葉が多くあることになります。

97定家は、「慣用句のようになっている、「ほととぎす鳴くや五月」、「ひさかたの天の香久山」などのような句はたびたび用いて詠まなくては、歌が出来ません。 しかし、「年の内に春は来にけり」、「袖ひぢて結びし水」、「月やあらぬ春や昔」などあの人が詠んだものと分かるような句を詠み込むことは避けるべきです。」と、本歌の用い方を述べています。 つまりもっと有名な歌があるのに何故この歌を撰んだのかという、この二つの歌集の撰歌意識の謎に答えてくれてますね。   上にもどる


 北極星(北辰) 14首
  7仲麿・11篁・16行平たちの当時の心情を切実に詠んだ歌や12遍昭・17業平・9小町たちの余情妖艶の体の歌を指針とせよとしたのでしょうか。
百11−秀7
小野篁
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣船
百7−秀6
安倍仲麿
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に
出でし月かも
百6−秀5
大伴家持
鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ
ふけにける
百5−秀8
猿丸大夫
奥山にもみぢ踏み分けなく鹿の声聞くときぞ
秋はきにけり
百8−秀14
喜撰法師
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と
人はいふなり
百14−秀17
源融
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし
われならなくに
百18−秀11
藤原敏行
住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路
人目よくらむ
北 極 星 (北 辰) 百17−秀10
在原業平
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに
水くくるとは
秀18−百15
光孝天皇
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に
雪は降りつつ
秀15−百12
僧正遍昭
天つ風雲の通ひ路吹き閉じよをとめの姿
しばしとどめむ
秀12−百13
陽成院
筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて
淵となりぬる
秀13−百9
小野小町
花の色は移りにけりないたづらにわが身世に
ふるながめせし間に
秀9−百16
在原行平
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば
今帰り来む
秀16−百10
蝉丸
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも
逢坂の関


 月 12首
  35紀貫之たち古今集時代の歌の心は巧みに、丈は及びがたく、詞は強く、姿の面白い様を、97定家は歌人たちが愛した月に宿らせたのですね。
百35−秀28
紀貫之
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に
にほひける
百28−秀21
源宗干
山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬ
と思へば
百21−秀22
素性法師
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出で
つるかな
百22−秀27
文屋康秀
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらし
といふらむ
百27−秀36
藤原兼輔
みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋し
かるらむ
百25−秀35
藤原定方
名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくる
よしもがな
百36−秀33
清原深養父
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月
宿るらむ
秀25−百29
凡河内躬恒
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどわせる
白菊の花
秀29−百31
坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に
触れる白雪
秀31−百34
藤原興風
誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友
ならなくに
秀34−百26
藤原忠平
小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびのみゆき
待たなむ
秀26−百33
紀友則
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の
散るらむ


 北斗七星 33首
  「35紀貫之たちの古今集的歌風の流れを受けたのちの歌人たちは、その心に向けて歌を詠みましたが、 近い時代の人々は、ただ思いつきの趣向を三十一文字に言い続けて、本来の進むべき方向から逸れて、姿や詞の情趣を一向に理解しません。」と、97定家は述べています。 その心に向けた歌人たち33人を時代順に七つの星に宿らせました。一条朝の女流歌人たちのあとの11世紀後半の歌人が少ない謎の一つだったのですね。
百23−秀30
大江千里
月見れば
千々に物こそ
悲しけれ
わが身ひとつの
秋にはあらねど
百30−秀24
壬生忠岑
有明の
つれなく見え
し別れより
暁ばかり
憂きものはなし

→→→→→
→→→→→
→→→→→

→→→→→
→→→→→
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百37−秀38
文屋朝康
白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける
百38−秀39
右近
忘らるる
身をば思はず
誓ひてし
人の命の
惜しくもあるかな
貪狼星・とんろうしょう
単なる欲望を意味するのではなく、度を越してしまい、自我を出しすぎる。
百24−秀23
菅原道真
このたびは
幣も取り敢へず
手向山
紅葉の錦
神のまにまに
巨門星・こもんしょう
優秀な頭脳をひけらかすことなく、でもその才をいかんなく発揮して上の者に仕える。
百39−秀37
源等
浅茅生の
小野の篠原
忍ぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
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禄存星・ろくぞんしょう
天体観測器を表し、古代、人生の幸不幸は、天体の動きに左右されると信じられていた。禍福を左右する星とされた。
百40−秀41
平兼盛
忍ぶれど
色に出でにけり
わが恋は
物や思ふと
人の問ふまで
百41−秀42
壬生忠見
恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか
百42−秀45
清原元輔
契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは
百46−秀47
曽禰好忠
由良のとを
渡る船人
かぢを絶え
行方も知らぬ
恋の道かな
百47−秀52
恵慶法師
八重葎
しげれる宿の
さびしきに
人こそ見えね
秋は来にけり
百52−秀51
藤原道信
明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なほ恨めしき
朝ぼらけかな

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←←←←←
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秀40−百43
藤原敦忠
逢ひ見みての
後の心に
くらぶれば
昔は物を
思はざりけり
秀43−百45
藤原伊尹
あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな
秀46−百48
源重之
風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
砕けて物を
思ふころかな
秀48−百49
大中臣能宣
御垣守
衛士の焚く火の
夜は燃え
昼は消えつつ
物をこそ思へ
秀49−百50
藤原義孝
君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひけるかな
秀50−百51
藤原実方
かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを

文曲星・もんごくしょう
唯一の三等星で、他より輝きは小さい。芸術や文学に秀でている。技を極める。物の重さを測る器具を表し、神経質な星。
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百54−秀55
儀同三司母
忘れじの
行末まで
はかたければ
今日を限りの
命ともがな
百55−秀59
藤原公任
滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ
百59−秀63
赤染衛門
やすらはで
寝なましものを
小夜ふけて
かたぶくまでの
月を見しかな
廉貞星・れんていしょう
清く正しい。現実を照らし合わせながら善悪を定める。よくないと思うものは容赦なく排除する。五番目に位置し、玉衡と呼ばれ、責任感の強い星。
秀54−百68
三条院
心にも
あらでうき世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
秀68−百63
藤原道雅
今はただ
思ひ絶えなむ
とばかりを
人づてならで
いふよしもがな
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百57−秀64
紫式部
めぐり逢ひて
見しやそれとも
わかぬ間に
雲隠れにし
夜半の月かな
百64−秀67
藤原定頼
朝ぼらけ
宇治の川霧
たえだえに
あらわれわたる
瀬々の網代木
百67−秀69
周防内侍
春の夜の
夢ばかりなる
手枕に
かひなく立たむ
名こそ惜しけれ
武曲星・むごくしょう
勇敢なチャレンジャー。危険をかえりみない。正義の星。そばに輔星がある。宰相の意味があり、武曲星を支援している。それ故の強さか。
秀57−百69
能因法師
あらし吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり
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百58−秀62
大弐三位
有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする
百62−秀60
清少納言
夜をこめて
鳥の空音は
はかるとも
よに逢坂の
関はゆるさじ
百60−秀66
小式部内侍
大江山
いく野の道の
遠ければ
まだふみもみず
天の橋立
破軍星・はぐんしょう
勝負を左右し、明暗を分ける星。変動や破壊を意味する。新しいステージの始まりを呼び起こす。何者をも恐れない強さを持ち、一石を投じる星。
秀58−百70
良暹法師
さびしさに
宿を立ち出でて
ながむれば
いづこも同じ
秋の夕暮れ
秀70−百71
源経信
夕されば
門田の稲葉
おとづれて
蘆のまろやに
秋風ぞ吹く
秀71−百66
行尊
もろともに
あはれと思へ
山桜
花よりほかに
知る人もなし
上にもどる

104人の歌人たちの内、70人(5X7X2)は昴、北極星、月、北斗七星のそれぞれの環の中に入っており、 ほとんどが71番までに入っていますが、77崇徳院、84藤原清輔、85俊恵法師の三人は不動番号として昴に属しています。

反対に、秀53一条皇后宮定子に始まり秀56道綱母、秀61和泉式部、秀65伊勢大輔、秀75相模の5人の女流歌人たちは揃って天の川の99後鳥羽院の流れにいます。 歌だけを取り出してみると、

・よもすがらちぎりしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
・嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
・あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
・いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
・恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ

97定家が、これらの5首(5X1)の女性の歌に仮託して、99後鳥羽院への思ひを秘めたのです。 99後鳥羽院のお陰で取り立ててもらい、 華やかに歌壇人生を送れたにもかかわらず二度と会うことも叶わなくなり、 せめてもう一度お会いしたい願いや、遠島にあっても都と文を交わし、 歌集や歌合を精力的に編纂している99後鳥羽院の御所こそ九重ですと言いたかったのでしょう。 そして後世の人々に院より怒りをかったままの自分が伝承されていくことが口惜しかったのですね。

牽牛星6首・織女星4首・天の川25首(5X5) 
「71経信、74俊頼、75基俊、79顕輔、83俊成、84清輔たちは、寛平時代以前の古体を希求しました。 彼らの情のこもった姿の美しい姿は、仰ぐべき昔の代(六歌仙)にも匹敵するものではないか。」と、97定家は述べていますが、 71経信は北斗七星のほうに宿り、秀76俊頼、79顕輔は天の川の100順徳院側に、 75基俊、83俊成は天の川の99後鳥羽院側に、そして84清輔はスバルにいます。

「百人秀歌」にのみある4首の歌で始まり、「百ト一首」だけにある4首の歌で終わる35首(5X7)の歌のうち、 天の川の仮託した女流歌人の5首を除いた20首(5X2X2)、織女星の4首、牽牛星の6首を合わせた30首(5X2X3)には、何か特別な意味が込められているのでしょう。 織女星と牽牛星は鵲の橋を渡って合わさり10首(5X2)となります。
牽牛星 6首 順徳院川13首 天の川25首(5X5) 後鳥羽院川12首 織女星 4首
秀53
定子
よもすがらちぎりしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
百53−秀56
道綱母
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
百56−秀61
和泉式部
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
百61−秀65
伊勢大輔
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
百65−秀75
相模
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
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秀90
藤原長方
紀の国のゆらのみさきに拾ふてふたまさかにだに逢ひ見てしがな
秀76
源俊頼
山桜咲きそめしより久方の雲ゐに見ゆる滝の白糸
百75−秀82
藤原基俊
契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
秀73
源国信
春日野の下萌えわたる草の上につれなく見ゆる春の淡雪
百90−秀91
殷富門院大輔
見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
百76−秀79
藤原忠通
わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波
百82−秀83
道因法師
思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
百73−秀72
大江匡房
高砂の尾上の桜咲にけり外山の霞立たずもあらなむ
百91−秀95
藤原良経
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
百79−秀80
藤原顕輔
秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
百83−秀87
藤原俊成
世の中よ路こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
百72−秀74
祐子内親王紀伊
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
百95−秀96
慈円
おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖
百80−秀78
待賢門院堀河
長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
百87−秀93
寂蓮法師
村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ
百74
源俊頼
憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
百96−秀101
藤原公経
花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
百78−秀81
源兼昌
淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜ねざめぬ須磨の関守
百93−秀98
源実朝
世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも
百101
藤原為家
立ちのこす梢もみえず山桜花のあたりにかかる白雲
百81−秀86
藤原実定
ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる
百98−秀99
藤原家隆
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
百86−秀88
西行法師
嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな
百99
後鳥羽院
人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
百88−秀89
皇嘉門院別当
難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき
百89−秀92
式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
百92−秀94
二条院讃岐
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
百94−秀97
藤原雅経
み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
百97−秀100
藤原定家
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
百100
順徳院
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

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文暦元年(1234年)、
後堀河院の崩御(8月)により「新勅撰集」草稿を焼く
道家は「新勅撰集」草稿本を尋ね出し選集継続させる(10月下旬)
道家・教実父子は「新勅撰集」から百余首削除させる(11/10)
夏に草稿を焼いてから「百人秀歌」と「百人一首」を秘密裏に編纂するか。

文暦二年(1235年)、
「新勅撰集」完成(世尊寺行能書) 道家に献ずる(3/12)
99後鳥羽院の環京を願うが鎌倉が拒否(5/14)
宇都宮頼綱の求めに応じて、1天智天皇より、94雅経、98家隆までの歌を色紙に書いて送る(5/27)

後堀河院の崩御に伴い破棄した「新勅撰集」を、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経父であり、 九条家3代当主の道家により政治的配慮を余儀なくされた再編集に対して、歌人として屈辱的な思いをしたのではないだろうか。

過去に二条天皇勅命による「続詞花集」が84清輔によって編まれていたが、 崩御によりとん挫したことがある。97定家も我が身に同じ事が起こってしまったと思ったから草稿を庭で焼いてしまったのだ。

最晩年において最高の名誉となるはずがこのようなことになり、全く別の形で無念な<最上四天王院>の思ひや93実朝に贈った歌論書「近代秀歌」の内容を具体的に歌人たちを天空の星に宿らせて留め置いたのですね。 これらは二つの歌集が合わさって初めて解き明かされることなのです。

参考資料
※「安倍清明 北斗七星占い」 祖笛翠 2000年 勁分社
※「現代に息づく陰陽五行」 稲田義行 2009年第8刷 日本実業出版社
※「陰陽師の解剖図巻」 川合章子 エクスナレッジ 2021年8月30日 初版第1刷発行
※「定家『明月記』の天文記録−古天文学による解釈−」 斉藤国治 1999年 慶友社
※「新勅撰和歌集」 久曾神昇 樋口芳麻呂校訂 2009年第4刷 岩波書店
※「源氏物語・巻四・槿」 円地文子訳 昭和五十五年第8刷 新潮社
※「更級日記」菅原孝標女 校注、訳者、注解 犬養 廉 新編日本古典文学全集 新潮社 By JapanKnowledge Personal
※「だれも知らなかった<百人一首>」 吉海直人 春秋社 2008年1月1日 第一刷発行
※「星座を見つけよう」 H.A.レイ文・絵 草下英明訳 1991年第51刷 福音館書店
※「眺める・撮る 星空の楽しみかた」 KAGAYA 河出書房新社 2021年12月30日2刷発行
 ウエッブサイト「やまとうた・近代秀歌」
 ウエッブサイト「「藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか」京都の天文学【4】臼井正(京都学園大学) あすとろん5号 2009年1月1日発行


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