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◆ 百人秀歌の歌人たち    (2023/7/1 随時更新中)

「百人秀歌」と同様に「百人一首」も101首あるという自説<百人秀歌と百ト一首>のページ。

最勝四天王院が取り壊された無念さを込めて、両集あわせて全105首の中から半分近くの45首(5X9、5X3X3)の歌や詞書に地名を入れたと思われる<最勝四天王院>のページ。

自分史に平安時代の和歌を年代に追って取り込んだ<定家略年譜>のページ。

98鎌倉右大臣実朝に贈った歌論書「近代秀歌」を基にして、天空の星々に歌人たちを宿らせ未来永劫輝き続けさせました。 そして、その中に100定家のXX後鳥羽院への思ひや世評に対する口惜しさを秘したと思われる<北斗七星信仰>のページ。

「歌合」というものは、左右に分かれてお題に基づいて歌を詠みあい競い合うものです。左にいた人が右に入って歌を詠んだりしません。 しかし100定家は過去に前例のない形式でもって革新的な「組み合わせ」を編み出したのです。これは左右の優劣を競い合うものではなく、 今まで展開してきた其々のページに広がる時代背景、歌人たちの歴史、100定家自身の解釈や思ひを載せています。

二つの歌集を合わせると104人の歌人がいますが、「百人秀歌」と「百ト一首」の片方だけにしかいない歌人が三人ずついます。 53定子、73国信、90長方とXX後鳥羽院、XX順徳院、XX為家です。76俊頼は異なる歌が入っています。 両集101首中11首は左右同じ歌人です。

このページでは、おおよそ時代順になっている「百人秀歌」にそって、其々の歌人の背景や定家の解釈などを巡っていきます。

・歌人の前の数字は「百人秀歌」番号です。
・天皇の生没年の4つ数字の間の2つの数字は在位期間を、 3つの場合は在位中に没したことを示しています。 天智天皇(626〜668-672)、持統天皇(645〜690-697〜703)
 
 
 ◆ 目 次
                                    
天智天皇
秀百 1
持統天皇
秀百 2
柿本人麿
秀百 3
山辺赤人
秀百 4
大伴家持
秀5(百6)
安倍仲麿
秀6(百7)
小野篁
秀7(百11)
猿丸大夫
秀8(百5)
在原行平
秀9(百16)
在原業平
秀10(百17)
藤原敏行
秀11(百18)
陽成院
秀12(百13)
小野小町
秀13(百9)
喜撰法師
秀14(百8)
僧正遍昭
秀15(百12)
蝉丸
秀16(百10)
源融
秀17(百14)
光孝天皇
秀18(百15)
伊勢
秀百 19
元良親王
秀百 20
源宗之
秀21(百28)
素性法師
秀22(百21)
菅原道真
秀23(百24)
壬生忠岑
秀24(百30)
凡河内躬恒
秀25(百29)
紀友則
秀26(百33)
文屋康秀
秀27(百22)
紀貫之
秀28(百35)
坂上是則
秀29(百31)
大江千里
秀30(百23)
藤原興風
秀31(百34)
春道列樹
秀百 32
清原深養父
秀33(百36)
藤原忠平
秀34(百26)
藤原定方
秀35(百25)
藤原兼輔
秀36(百27)
源等
秀37(百39)
文屋朝康
秀38(百37)
右近
秀39(百38)
藤原敦忠
秀40(百43)
平兼盛
秀41(百40)
壬生忠見
秀42(百41)
藤原伊尹
秀43(百45)
藤原朝忠
秀百 44
清原元輔
秀45(百42)
源重之
秀46(百48)
曽禰好忠
秀47(百46)
大中臣能宣
秀48(百49)
藤原義孝
秀49(百50)
藤原実方
秀50(百51)
藤原道信
秀51(百52)
恵慶法師
秀52(百47)
一条院皇后宮
秀53
三条院
秀54(百68)
儀同三司母
秀55(百54)
道綱母
秀56(百53)
能因法師
秀57(百69)
良暹法師
秀58(百70)
藤原公任
秀59(百55)
清少納言
秀60(百62)
和泉式部
秀61(百56)
大弐三位
秀62(百58)
赤染衛門
秀63(百59)
紫式部
秀64(百57)
伊勢大輔
秀65(百61)
小式部内侍
秀66(百60)
藤原定頼
秀67(百64)
藤原道雅
秀68(百63)
周防内侍
秀69(百67)
源経信
秀70(百71)
大僧正行尊
秀71(百66)
大江匡房
秀72(百73)
源国信
秀73
祐子内親王紀伊秀74(百72) 相模
秀75(百65)
源俊頼
秀76(百74)
崇徳院
秀百 77
待賢門院堀河
秀78(百80)
藤原忠通
秀79(百76)
藤原顕輔
秀80(百79)
源兼昌
秀81(百78)
藤原基俊
秀82(百75)
道因法師
秀83(百82)
藤原清輔
秀百 84
俊恵法師
秀百 85
藤原実定
秀86(百81)
藤原俊成
秀87(百83)
西行法師
秀88(百86)
皇嘉門院別当
秀89(百88)
藤原長方
秀90
殷富門院大輔
秀91(百90)
式子内親王
秀92(百89)
寂蓮法師
秀93(百87)
二条院讃岐
秀94(百92)
九条良経
秀95(百91)
前大僧正慈円
秀96(百95)
藤原雅経
秀97(百94)
源実朝
秀98(百93)
藤原家隆
秀99(百98)
藤原定家
秀100(百97)
藤原公経
秀101(百96)
 
 ◆ トピック
 
秀1番の次 T.1 各勅撰集の巻頭歌の歌人 秀5番の次 T.2竹取物語の五人の挑戦者 秀6番の次 T.3 漢詩集と万葉集
秀7番の次 T.4 羇旅・別離の歌 秀8番の次 T.5 他氏排斥事件 秀9番の次 T.6 仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人
秀13番の次 T.7 式子内親王と定家 秀16番の次 T.8 蝉丸について 秀18番の次 T.9 是定親王家歌合
秀23番の次 T.10 菅原家と藤原長良・良門流 秀36番の次 T.11 大和物語 秀39番の次 T.12 参議・中納言
秀41番の次 T.13 天徳内裏歌合 秀44番の次 T.14 源氏物語のモデル 秀45番の次 T.15 梨壺の五人
秀50番の次 T.16 世尊寺家と定家 秀52番の次 T.17 一条朝前後 秀55番の次 T.18 母と名がつく歌人と定家
秀60番の次 T.19 清少納言という名
    
 
 ◆ 百人秀歌の歌人たち (101人)  (歌人の前の数字は秀歌番号です)
天智天皇御製
秀1(百1)

秋の田の
かりほの庵の
苫を荒み
わが衣手は
露にぬれつつ
★天智天皇(626〜668−672) (後撰集 秋中302)
☆秋の田に間に合わせて作った仮の庵は荒くて、番をする私の袖に露がおりて濡れつづけていることです。

「万葉集」(巻十2174)
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける
というよみ人知らずの歌があり、それがいつの間にか変化して御製として伝わったようだ。

奈良時代末に天武天皇系が途絶え天智系に移ったが、直系の(天智天皇−志貴皇子−光仁天皇−)桓武天皇が都を京に移して平安京を開いたので、この歌は 平安時代の天皇の皇祖として農民を思いやるにふさわしい歌として選ばれたように解釈されたりしている。

しかしこの歌が収められている「後撰集」は、藤原家一族の者が多く、「大和物語」との関連性もあり恋の歌がとても多いのです。

「万葉集」(巻一13)では、香久山と畝火山と耳成山とが神代の時から争った話があるくらいだから人の世でも当然かなということで、 それを踏まえて中大兄皇子と大海人皇子と額田王との三角関係の末に恋破れて中大兄皇子(天智天皇)が袖を濡らしているという解釈もある。

   =上にもどる=
天智天皇
百1(秀1)

秋の田の
かりほの庵の
苫を荒み
わが衣手は
露にぬれつつ
 
「百人秀歌・百ト一首」は、この天智天皇の「秋」の歌から始まっているが、「紫式部日記」も「秋のけはひ入り立つままに...」と「秋」から始まっている。 各勅撰集は「春」の歌から始まり、「枕草子」も「春はあけぼの...」と「春」から始まっている。

「古今集」から「続後撰集」までの勅撰集十集の中で、勅撰集の始まりである「春上」の巻頭歌が御製なのは「新勅撰集」だけである。同じ時期に編んだとされるこの「百人秀歌・百ト一首」が天智天皇の御製から始まることと何か結びつくものがあるのだろうか。
 T.1 = 各勅撰集の巻頭歌の歌人 =  ●印この集の入撰歌人
番号 勅撰集名 歌人名
1 古今集 在原元方
2 後撰集 藤原敏行朝臣
3 拾遺集 壬生忠岑
4 後拾遺集 小大君
5 金葉集 修理大夫顕季
6 詞花集 大蔵卿匡房
7 千載集 源俊頼朝臣
8 新古今集 摂政太政大臣 (藤原良経)
9 新勅撰集 御製 (後堀河院)
10 続後撰集 皇太后宮大夫俊成



持統天皇御製
秀2(百2)

春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山
★持統天皇(645〜690−697〜703) (新古今集 夏175)
☆春が過ぎて夏がやってきたらしい。真白い衣を干しています、天の香久山。

「万葉集」(巻一28)
春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天のかぐ山
という歌が原歌としてある。

白い衣が具体的に何を表しているのか。白い衣を干す習慣があったとか、菜の花のたとえであるとか。 夏がやってきたという言葉から青々とした空に立ち昇る雲、風そよぎ、 衣がほのかにたなびきながら揺れている情景が浮かび上がったりすると解釈されたりしている。

また、香久山が天から降りてきたと言う神話や羽衣伝説を思い起こさせてくれるし、 夫の天武天皇亡き(686年)あと、694年に藤原京遷都を成し遂げたが、新しい国造りに向けて歩みだした時に、 晴れ晴れとした青空を眺めながら、戦いすんで洗い清めた衣を干しているような心境だったのではないだろか。

初めから2番目において、夏がやって来たらしいと言い、終りから3番目において、99「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」と、まだ夏ですよと言ってます。
   =上にもどる=
持統天皇
百2(秀2)

春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山


 
柿本人丸
秀3(百3)

あしびきの
山鳥の尾の
しだり尾の
ながながし夜を
ひとりかも寝む
★柿本人麿(生没年不詳) (拾遺集 恋三778)
☆山鳥の長〜く垂れ下がった尾より、もっと長〜い秋の夜を、私は愛する人と別れて一人で寝ることになるのだろうか。

「万葉集」(巻十一2802)
思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を
とあり、その左註にこの歌がある。

よみ人しらずなので人麿の歌ではない。拾遺集に撰ばれたのも、この頃に出た「人丸集」によるものらしい。 人丸、人麻呂、人麿と色んな表記がある。平安時代には、俗に人丸と言われてた。

持統天皇、次の文武天皇の時代の宮廷歌人として行幸に従ってその場所場所で歌を献上した。 最後は石見国(島根県益田市)で亡くなったらしい。万葉時代の最大の歌人で歌の聖とされる。 約400年後の1118年に六条藤家の歌人たちによって人丸影供が催された。

XX後鳥羽院が87俊成の九十賀に詠んだ歌がこの歌を本歌取りしたものだったので、100定家は違うと分かっていても3人麿の歌としてこれを撰んだのでしょう。
太上天皇 (新古今集 春下99) 
桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな 
 ・桜の咲く遠山、それは山鳥の長く垂れた尾のように、永い永い春のひねもす眺めていても飽きない色だなあ。
   =上にもどる=
柿本人麿
百3(秀3)

あしびきの
山鳥の尾の
しだり尾の
ながながし夜を
ひとりかも寝む


 
山邊赤人
秀4(百4)

田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ
★山辺赤人(生没年不詳) (新古今集 冬675)
☆田子の浦に進み出て、遥か彼方を見渡すと、真っ白い富士の高嶺に今も雪はしきりに降っていることだ。

「万葉集」(巻三318)
田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ ふじの高嶺に 雪はふりける
と、山部宿禰赤人の長歌に続いて反歌としてある。

3人麿と並び称されているが、聖武天皇(701〜724−749〜756)の世に活躍し多くの歌を残すが、3人麿と同じく「赤人集」から撰ばれたものが多く 真偽のほどは分からない。

100定家は最晩年に至ってこの歌を評価したらしい。59藤原公任が編んだ「三十六人撰」の赤人の歌三首にこの歌はない。 後年、87俊成によって歌人はそのままに歌だけを撰び直した「俊成三十六人撰」にもこの歌はない。 「新古今集」以降名歌となった。
   =上にもどる=
山辺赤人
百4(秀4)

田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ


大伴家持
秀5(百6)

鵲の
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞふけにける
★中納言家持 (718?〜785) (新古今集 冬620) 
☆美しく冴えた冬の空に見える天の川をかささぎが橋を架け渡したという七夕伝説を思い起こさせながら澄み切った夜がすっかり更けたこと詠っている。

この歌は家持の歌ではないが、3人麿や4赤人と同じく、平安時代にできた「家持集」に入っているので、「新古今集」に家持の歌として選ばれた。 この歌は「万葉集」に入っていない。

1番から4番までどちらの集も同じ歌ですが、この5番目の歌から次々と歌番号がリンクしていきます。<北斗七星信仰>参照。 トピック<T.5=他氏排斥事件=>で言及してますが、 8猿丸大夫が伴健岑だとすると、ここで「藤原種継暗殺事件」と「承和の変」での悲劇の人が合わされています。

空を舞う鵲と大地を踏みしめる鹿、霜の白さと木々の黄葉、澄み切った夜空の無音の 静寂とカサカサと落葉を踏み分ける音、それぞれの歌の視覚と聴覚を研ぎ澄ました対照的な歌を並べてます。

秋の田の地から天香久山、富士の高嶺、さらに鵲の橋から天上へと視線が昇って行き、次の天の原で満天の月へと誘われます。 そこから「源氏物語」(絵合)に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とある竹取物語が浮かび上がってきました。    =上にもどる=
猿丸大夫
百5(秀8)

奥山に
もみぢ踏み分け
なく鹿の
声聞くときぞ
秋はきにけり


        
 T.2  = 竹取物語の五人の挑戦者 = 

 平安時代の物語。「竹取翁物語」と題した写本もあります。9世紀後半から10世紀前半頃に、和・漢,仏教の知識をもった男性によってつくられたと考えられています。 (元となる話は「万葉集」にも収められていて様々な伝承があります。)

 内容は構成上、かぐや姫の生い立ち、5人の貴公子と帝(みかど)の求婚、かぐや姫の昇天の三部からなっています

 姫のうわさを聞いて多くの男たちが求婚したが、なかでも中納言石上麻呂(いそのかみのまろ)、右大臣阿部御主人(あべのみうし)、 大納言大伴御行(おおとものみゆき)、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、 の5人が特に熱心であった。

 最後に帝が姫を求めて勅使を遣わしますが、姫はそのお召しにも応じず、養い親の翁や嫗の嘆きをあとに、不死の薬と手紙を残して、八月の十五夜に天人に迎えられて月の世界へ昇天してしまうのでした。
 
5人の貴公子 かぐや姫の難題     3人の実在の人物と仮託の2人
1 中納言石上麻呂
(いそのかみのまろ)
燕の産んだ子安貝 石上麻呂(640〜717)は、壬申の乱(672年)では大友皇子側についていた。敗戦後に赦されて701年に大納言になり政治の中枢に携わった。しかし、710年に平城京に遷都した時に藤原京の留守役を命じられた。
2 右大臣阿倍御主人
(あべのみうし)
火鼠の裘
ひねずみのかわごろも
(焼いても燃えない布)
阿倍御主人(635?〜703)は、壬申の乱では大海人皇子側についていた。右大臣として太政官の頂点の座にいた。 持統天皇の代に、高市皇子、大伴御行、多治比嶋と並ぶ地位にあった。
3 大納言大伴御行
(おおとものみゆき)
龍の首の珠 大伴御行(646〜701)は、壬申の乱では大海人皇子側についていた。 持統天皇の代に、高市皇子、阿倍御主人、多治比嶋と並ぶ地位にあった。
4 石作皇子
(いしづくりのみこ)
仏の御石の鉢 多治比嶋(たじひのしま・624〜701)は宣化天皇(第28代)の玄孫。 天武天皇(第40代)の高祖母の石姫皇女は宣化天皇の皇女であり多治比嶋の祖母叔母になる。太政大臣の高市皇子に次いで高い地位についた。
5 車持皇子
(くらもちのみこ)
蓬莱の玉の枝
ほうらいのたまのえ
(根が銀、茎が金、
実が真珠の木の枝)
藤原不比等(659〜720)は、母が一説に車持与志古の娘。
701年の大宝律令編纂の中心的人物。阿倍御主人、大伴御行、多治比嶋などが次々と亡くなった後に、藤原氏の最初の黄金時代を築いた。 
=上にもどる=


安倍仲麿
秀6(百7)

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
★ 安倍仲麿 (698〜770) (古今集 羇旅406)
☆大空を見上げると、月がのぼっている。これは我が故郷、春日の山に出た月と同じなのだろうか。

仲麿と家持は、天武天皇系の時代の人だが、仲麿は、家持が生まれる前年?(717年)に遣唐使となり、753年11月に一度帰国を試みた。 その時、皆が別れの宴を開いてくれ、その宴席で昇ってきた月を見て、この歌を詠んだとされている。しかし船が難破し漂流したのち唐に戻り、その後帰国することなく唐で没した。

唐の国では、帰国を夢見た仲麿が東から昇ってきた月を見て詠んでいる時に、日本の宮中では、冬の澄み切った夜空にかかるかささぎの渡せる橋の白さを見上げていると思えば、 雄大な天空で二つの歌は見事に織り合わさっていますね。
   =上にもどる=
大伴家持
百6(秀5)

鵲の
渡せる橋に
おく霜の
白きを見れば
夜ぞふけにける


        

 T.3  = 漢詩集と万葉集 =

6安倍仲麿が遣唐使となり、唐の国にて玄宗(685〜712-756〜762)に仕え、李白、王維らの詩人と交流していたが帰国を試みたのは753年だった。 その2年前の751年に日本最初の漢詩集「懐風藻」が作られた。
※日本大百科全書(ニッポニカ) by Japanknowledge
 
詩集と歌集 年代     詳細
1 懐風藻 私選漢詩集 日本最初の漢詩集。選者は、 弘文天皇(大友皇子)のひ孫・淡海三船(おうみのみふね・722〜785)とも石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ・729〜781)とも言われるが不明。 5大伴家持が34歳の頃の751年成立。7世紀半ばから8世紀半ばの64人の漢詩からなる。

大友皇子(648〜672)に始まり、 700年代前半に活躍した葛井広成(ふじいのひろなり)で終わる。最後から二番目の石上乙麻呂(?〜750)は、宅嗣の父である。 乙麻呂は一時期土佐に配流になっていたことがあり、その当時に作った漢詩四首が載っている。

配流の悲哀を書した「銜悲藻(かんびそう)」があったらしい。 また<T.3=竹取物語=>のモデルになった石上麻呂(640〜717)は、乙麻呂の父であり、 宅嗣の祖父である。

石上麻呂は、「壬申の乱」では大友皇子と共に戦ったが許されて大納言まで上った。 710年の平城京遷都の際に藤原京の留守役を命じられたわけだが、 麻呂、乙麻呂などが、戦いによって散逸した漢詩を集めていたものを22歳の宅嗣が父の没後にまとめたのではないだろうか。

※「懐風藻」全訳注 江口孝夫 講談社学術文庫 2018 第10刷
2 万葉集 私選集〜勅撰和歌集 現存する最古の歌集。雄略天皇に始まり、5大伴家持の歌で終わる。4500首余りの歌があり全20巻からなる。

最後の4巻は家持の歌を軸として形成されている。一般的に「万葉集」は家持の編纂によってなされたものと言われてきた。

T.2での「赤人は聖武天皇」論からすると、大伴池主とのやり取りの中にある「山柿の門」(さんしのもん)の「山」は、5大伴家持の父である旅人と交流のあった山上憶良のことではないか。

785年の種継暗殺事件に関与していたとして、没後のことにも関わらず罪を問われて官位は剥奪され、息子は隠岐に配流となった。

桓武天皇は、罪に陥れた弟の早良親王などの怨霊に悩まされ続けた。崩御(806年)後、平城天皇は家持の官位を元に戻したが、それのみならず代々受け継がれてきた歌集をまとめ、 最後に家持の歌集を連ねて勅撰とし霊を慰めたのではないだろうか。

それ以前にも家持は聖武上皇崩御(756年)後、「奈良麻呂の変」(757年)とは関わりなかったにもかかわらず連座して実質左遷の因幡の国守(758年)となる。 30代の頃に歌を詠み交わした大伴古慈斐や大伴池主などが土佐配流や獄死になった2年後、国庁の年賀の宴にて次の歌を詠む。 元日の雪は豊年の瑞祥と考えられていた。

「万葉集」(掉尾歌4516)
新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事 

その後、家持は栄進もするが時代に翻弄されて、薩摩国から陸奥国へと平城京と行き来しながら人生を終える。

歌を一首詠めば人と時代が追随する。764年に起こった淡路廃帝(淳仁天皇)、天武系最後の称徳天皇と道鏡の「宇佐八幡宮神託事件」、天武系から天智系の光仁天皇に移った後の早良親王(廃太子)と続いた平城京最後の八世紀後半の中央政権の覇権争いや平城天皇自身の「薬子の変」などを歌集に残したくなかったのかな。
3 凌雲集 勅撰漢詩集 嵯峨天皇(786〜809-823〜842)勅命814年、小野岑守(778〜830)、菅原清公(770〜842)らによって編纂された。作者は平城天皇、 嵯峨天皇、大伴親王(淳和天皇)ら23人で、全90首。なお、後に1首が加えられ、91首となって現在に伝わっている。

小野岑守は、7参議篁の父
菅原清公は、23菅家(道真)の祖父
4 文華秀麗集 勅撰漢詩集 嵯峨天皇勅命818年、藤原冬嗣(775〜826)が仲雄王や菅原清公などに編纂を命じた。作者は嵯峨天皇、 淳和天皇をはじめ28人に及び、渤海使節や女流詩人の作品も収めるという。もともとは148首が収めれていたが、内5首は伝わらない。
5 経国集 勅撰漢詩集 淳和天皇(786〜823-833〜840)勅命827年、良岑安世(785〜830)、滋野貞主(しげのさだぬし・785〜852)、 菅原清公らが編纂。作者は、淳和天皇、石上宅嗣、淡海三船、空海ら176人。 20巻のうち6巻が残っている。

桓武天皇男・良岑安世は、15僧正遍昭の父
滋野貞主は、仁明天皇女御・縄子の父<T.7=仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人=>
 

李白は762年に亡くなり、天武系から天智系になった770年に杜甫、6安倍仲麿が没した。その2年後に白居易(772〜846)は生まれた。

藤原岳守(ふじわらのおかもり・808〜851)は大宰府に赴任中(838年)に、唐人の貨物の内容を調査した際に得た白居易の漢詩を仁明天皇に献上した。 844年には67巻本(839年に完成)の『白氏文集』が伝来している。845年に75巻完成。平安文学に多大な影響を与えた。

仁明天皇三男・18光孝天皇(830〜884-887)の御代より和歌復興となり宇多天皇、醍醐天皇と続く。

※「懐風藻」江口孝夫 全訳注 講談社学術文庫 2018年 第10刷
※「万葉集」全訳注原文付(一)〜(四) 中西進 講談社文庫 (一) 2009年 第42刷
※「大伴家持」北山茂夫 平凡社 2009年
※「平城天皇」春名宏昭 吉川弘文館 2009年
※「漢詩をよむ 白楽天 100選」石川忠久 NHK出版 2009年 第4刷
※「世界大百科辞典」by JapanKnowledge
=上にもどる=


参議篁
秀7(百11)

わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人には告げよ
海人の釣船
★ 参議篁(小野篁) (802〜852) (古今集 羇旅407)
☆大海原の多くの島々をかけて漕ぎだしたよと、都にいる妻や子供たちに伝えておくれ海人の釣り船よ。

小野篁は832年に遣唐副使を拒否して、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に配流となる。旧暦12月、現代の暦の年末から2月にかけての時期なので冬に詠まれた歌である。 冬の日本海に漕ぎだすのは暗澹たる心持ちだったと思うが、2年後には許されて帰京し参議従三位に昇った。 承和の変(842)により道康親王(のちの文徳天皇)が東宮になるとその東宮博士に任じられた。

◎承和の変、淳和上皇の皇子恒貞親王が東宮を排され、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)が東宮となった。<T.5 他氏排斥事件>

遠く離れた流罪地より一日千秋の思いで帰京できる日を待って月を眺めたと思うが、同じ方向を見ながらも、 篁は平安京を思ひ、仲麿は平城京を思っていたでしょうね。

この二つの歌は、「古今集・羇旅」の部立ての巻頭歌を安倍仲麿が、2首目を参議篁が飾っています。羇旅・別離の部立ての歌を調べてみると全部で5首(5X1)ありました。 それぞれの歌人たちは、皆何かしらの悲劇性を持っていますね。
   =上にもどる=
安倍仲麿
百7(秀6)

天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも


   
 T.4  = 羇旅・離別の歌 = 
# 歌順 初句 出典      歌人名 
1 秀6 あまのはら 古今集
羇旅406
安倍仲麿。羇旅歌の巻頭歌。第44代、元正天皇御時、遣唐使として唐に渡る。帰国を志すが叶わず唐にて亡くなる。 
2 秀7 わたのはらや 古今集
羇旅407
参議篁(小野篁)。第54代、仁明天皇御時、遣唐副使の任を放棄したことにより嵯峨上皇の怒りをかって2年間隠岐に流罪となる。隠岐島へ船出する時に詠まれた。
3 秀9 たちわかれ 古今集
離別365
中納言行平(在原行平)。離別歌の巻頭歌。第55代、文徳天皇御時、事ありて一時期、須磨に籠っていた時期がある。この歌は因幡守に赴任する時に詠まれたものです。
4 秀23 このたびは 古今集
羇旅420
菅家(菅原道真)。第60代、醍醐天皇御時、藤原時平の中傷により大宰権帥に左遷となり配所で亡くなる。

「古今集」(羇旅421 掉尾歌) 素性法師
手向けには つづりの袖も きるべきに 紅葉に飽ける 神や返さむ
・手向けには、この私の粗末な衣でも切って幣として捧げるべきですが、 紅葉に満ち足りた神様は受け取っては下さらずにお返しになるでしょうか。

共に朱雀院(宇多上皇)の奈良への旅にて詠まれたが、同じ場面で詠まれたかどうか分かっていない。 しかし、22素性法師は道真におごりを感じていたのでしょうか。それとも28貫之が結果論として道真の次にこの歌を並べたのでしょうか。
5 秀98 よのなかは 新勅撰集
羇旅525
98鎌倉右大臣(源実朝)。XX順徳天皇御時、 甥の公暁に鶴ヶ丘八幡にて襲われ亡くなる。

ちなみに、「新勅撰集」(羇旅)の歌は大伴旅人と5家持の親子で始まりますが2首目の家持の歌、
(羇旅495)
ふせのうみの おきつしらなみ ありがよひ いやとしのはに 見つゝしのばむ
・布施の海の沖の白波が寄せては返すように、通い続け、ずっと毎年見ては素晴らしさを感じよう。

「おきつしらなみ」と、XX後鳥羽院を思い起こさせる言葉が出てきますね。
 

6阿倍仲麿、7小野篁、9在原行平の三人は、 その後それぞれの分野で活躍しましたが、23菅原道真と98源実朝は非業の最後でした。=上にもどる=


猿丸大夫
秀8(百5)

奥山に
もみぢ踏み分け
なく鹿の
声聞くときぞ
秋はきにけり
★ 猿丸大夫 (生没年不詳) (古今集 秋上215 よみ人知らず)
☆山深く黄葉を踏み分けて立ち入ると、妻を求めて鳴く鹿の声が聞こえてきて、秋の悲しさが身に染みることです。

5番目の5家持と猿丸大夫 の考証では、奥山を歩くのは鹿として聴覚、視覚の対比を楽しみましたが、ここでは、紅葉を踏み分けるのは孤独な人と解釈してみました。 世からは逃れられない孤高を感じている人がいれば、世間の噂を跳ね除け、高潔に暮らしている人もいます。

古来、この歌は黄葉を踏み分けるのは人なのか鹿なのか問われてきました。折々に解釈が異なっても良いのではないかと思います。

5番目で述べた「藤原種継暗殺事件」と「承和の変」での悲劇の人、 大伴家持と伴健岑と同様に、此処では14喜撰法師こと紀夏井と組み合わせて配流になった者同士を組み合わせています。
   =上にもどる=
喜撰法師
百8(秀14)

わが庵は 
都のたつみ
しかぞすむ 
世をうぢ山と
人はいふなり


   
 T.5  = 他氏排斥事件 (仮託の歌人たち・猿丸大夫と喜撰法師) = 

「古今和歌集」の真名序(紀淑望)で、六歌仙の一人、大友黒主について、「大友黒主の歌は、古の猿丸大夫の次なり」と述べています。 しかし、仮名序(紀貫之)では、この一文はありません。真名序と仮名序はどちらが先にできたのか意見の分かれるところです。 淑望が書き足したのか、28貫之が省いたか。そこに意味はあるのでしょうか。その意味を考えた時、伝承の歌人8猿丸大夫と14喜撰法師が浮かび上がってきました。

<T.4=羇旅・離別の歌=>で言及した7参議篁(802〜852)と9中納言行平(818〜893) にはさまれた8猿丸大夫は、その時代の人ではないだろうかと思い、 藤原北家による他氏排斥事件などを調べてみた。 「承和の変」(842年)

また、六歌仙の一人、13小野小町と15僧正遍昭(816〜890)にはさまれた14喜撰法師は、 紀淑望や28紀貫之の紀氏の人たちにとって公にできない者へ鎮魂をこめて仮託したのではないだろうか。 「応天門の変」(866年)

事件、変 略伝  
785年
延暦四年
藤原種継暗殺事件 藤原種継(藤原式家)は、桓武天皇より長岡京の造宮使に任命されたが、造宮監督中に矢で射られ亡くなった。事件直前に死去していたにも拘らず5大伴家持は首謀者として官籍から除名された。 桓武天皇の皇太弟であった早良親王も関係者として廃嫡、配流と憤死にまで発展した。 家持は没後20年以上経過した平城天皇の御時(806年)に恩赦を受けて従三位に復している
810年
大同五年
薬子の変 
(平城太上天皇の変)
桓武天皇が崩御した後、平城天皇が即位(806年)。病弱の原因が、叔父の早良親王の祟りなどにあると思い嵯峨天皇(平城弟)に譲位した。 しかし健康を取り戻した上皇は、平城京へ遷都しようとして失敗し、藤原種継の男(仲成)や女(薬子)が処罰されたり自害したりした。

皇太子だった高岳親王(平城男)は廃され、淳和天皇(嵯峨弟)が立てられた。9行平、10業平の父である阿保親王(平城男)も連座して 大宰員外帥へ左遷された。後に許されて824年に京に戻った。

平城法皇は変の後も朝覲を受けるなどの名誉ある待遇と相当の宮廷費を受けた。上皇が挙兵に着手して失敗した例は、こののち346年後の「保元の乱」の77崇徳院までない。
842年
承和九年
承和の変 823年に淳和天皇(嵯峨天皇弟)が即位すると仁明天皇(嵯峨男)が皇太子となった。 833年に、仁明天皇が即位すると恒貞親王(淳和上皇男)が皇太子となった。840年に淳和上皇が崩御し、その2年後に嵯峨上皇が崩御すると、仁明天皇と良房妹との皇子(文徳天皇)を即位させたいのではと危惧し、恒貞親王に仕えていた 伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)は阿保親王に相談した。

それが良房を通して仁明天皇の知るところとなり謀反人と断じられた。恒貞親王は廃され、良房の競争相手である同族の藤原氏や大伴氏、橘氏、文室氏など多くの氏が配流となった。

良房は、文徳天皇の外伯父となり、太政大臣(文徳天皇御時)、摂政(清和天皇御時)となった。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件。
866年
貞観八年
応天門の変 清和天皇(文徳天皇男)御時に、応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、 密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。伴善男の祖父、大伴継人は、種継暗殺事件の首謀者として処刑されている。伴善男の処罰により、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

「応天門の変」で処罰を受けた人の中に、紀夏井と言う人がいる。異母弟の紀豊城が共謀者の一人として逮捕されると、 夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となった。夏井は文徳天皇から寵遇を受け、また赴任地でも 農民から大変慕われたとのこと。なんの罪もなく、人望のあった夏井の失脚こそが紀氏の中央政権からの没落となった。
901年
昌泰四年
昌泰の変 左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により醍醐天皇が23右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し子供たちも流罪に処した事件。

醍醐天皇の即位当時(897年)、仁明天皇の嫡流子孫である20元良親王(12陽成院男)らを皇位継承者に擁立する動きに強い警戒感を抱いていた宇多法王は、天皇御時に起こった基経との苦々しい阿衡事件(888年)から 藤原時平が外戚の地位を狙っていることにも反発していた。23菅原道真を重用していた宇多法王と時平に信頼を寄せていた醍醐天皇の間に亀裂が生じていた。

宇多法皇が23道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、醍醐天皇と藤原時平らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。時平の讒言を信じた醍醐天皇の宣命によって23道真は大宰員外帥に降格された。 2年後の903年に現地で没した。

923年、罪を許され、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈られた。
993年、5月に正一位左大臣を贈られ、10月に太政大臣を贈られた。
8猿丸大夫は、仁明天皇の時代の人と推定し、真名序で「大友黒主は古の猿丸大夫の次」と言ってます。「おおとも」という音に導かれて、 黒主より前の人である伴健岑(とものこわみね)を猿丸大夫として仮託してみた。大伴氏は、平安初期に淳和天皇の諱(大伴親王)を避けて伴氏(ともうじ)に改称しました。

伴健岑は、恒貞親王の春宮坊帯刀舎人でした。春宮坊の長は春宮大夫と呼ばれましたが、伴健岑は大夫の役目もになっていたことはないでしょうか。「去っていった麻呂は、大夫であった。」...「猿丸大夫」とか...。

「古今集」には、「物名」(もののな、ぶつな)という部立てがあります。 勅撰集で「物名」の歌がまとめられているのは、「古今集」の他に59藤原公任撰の「拾遺抄」を基とした「拾遺集」、87俊成撰の「千載集」などがあります。 そして100定家撰の「新勅撰集」では、第二十巻の雑歌五で物名の歌をいくつかまとめています。

「古今集」では詠み人知らずの歌としているのを、59公任は「三十六人撰」で猿丸大夫の歌として取り上げました。87俊成は、「三十六人撰」の歌人はそのままにして歌を選び変えましたが、8猿丸大夫の歌はそのまま同じ歌です。そして100定家も、 やはり8猿丸大夫の歌として選びました。28紀貫之、59藤原公任、87藤原俊成、100藤原定家と歌道の家に連綿と受け継がれていったものがあるような気がしてます。 そういう考え方で、掛詞として、8猿丸大夫を読み解いてみました。

「物名」として何か秘められたものがあるのかもしれませんが...。


また、14喜撰法師は都の辰巳、宇治に住んだ人と伝わりますが、本当のことは何も分かっていません。「応天門の変」での紀氏の没落を考えると、 紀夏井の配流地の土佐は、宇治と扇形に反対の羊申の方向です。もし28貫之が夏井を14喜撰法師に仮託したとしたら、人が何と言おうとも彼は配流地でしかと住んだのではないかと思います。

「玉葉集」(夏404) 喜撰法師
木のまより 見ゆるは谷の ほたるかも いさりにあまの 海へ行かも  

京極為兼(100定家の曽孫)は、なぜこの歌を撰んだのでしょう。
「応天門の変」から30数年後に、「古今集」の真名序を記した紀淑望や仮名序を記した28紀貫之は、没落していった自分たちの紀氏を14喜撰法師に、大伴氏の名を大友黒主を通して8猿丸太夫に仮託 したのではないでしょうか。

これは、「竹取物語」のかぐや姫に求婚する5人の貴公子の内、3人は実在の人で、2人はそれとなく実在の人を感じさせながら、暗に藤原氏を批判しようとした意図を込めたのと同じような組み立てでしょうか。もしそうであるなら、 28貫之は、排斥された各氏の鎮魂を仮名序に込めた後に、「竹取物語」を書いて藤原氏の祖を風刺したのでしょうか。
=上にもどる=


中納言行平
秀9(百16)

立ち別れ 
いなばの山の
 峰に生ふる
 まつとし聞かば 
今帰り来む
★ 在原行平 (818〜893) (古今集 離別365)
☆今、お別れして因幡の国へ旅立ちますが、 その因幡にある稲葉山に生えている松のように私を待っていると聞いたら、すぐにでも帰ってきます。

文徳天皇の時代(850−858)に一時須磨に蟄居している時に詠んだ歌。
「古今集」(雑下962)
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ 
・もしもまれに私の消息を尋ねる人がいたならば、須磨の浦で塩をとるために海藻にかけた海の水さながらに涙を流しながら嘆いていると答えてください。

行平は、平城天皇の皇子阿保親王の子。父阿保親王は、<T.5 他氏排斥事件>「薬子の変」(810年)に連座して大宰権帥として左遷されたが平城天皇崩御の後に嵯峨天皇により 帰京を許された(824年)。行平は、826年に異母弟の10業平と共に在原姓を与えられ臣籍降下した。

881年在原氏の学問所として奨学院を設立し、880年代中ごろに現存最古の「在民部卿家歌合」を主催した。 行平は10業平とは全く違った無骨な生き方をした。

7小野篁(802〜852)は六歌仙の時代より前の時代に活躍し、9行平は、六歌仙と同じ時代であった。7小野篁ともども和漢兼才であった。 悲劇の人のイメージがあるが、官位は順調に昇進し官僚型であったようだ。しかし政治の頂点に立つことはできない人生でした。

「承和の変」、「応天門の変」などによる藤原氏の他氏排斥事件と同様に、文徳天皇の第一子惟喬親王(小野宮)は、 母(静子)が紀氏出のため後ろ盾が弱く、藤原良房に太刀打ちできず春宮になれませんでした。

紀静子(?〜866)は、紀名虎の娘で三条町と呼ばれた。姉の種子は仁明天皇の更衣。妹は11敏行の母。 兄に有常がいる。その有常の娘二人が10業平と11敏行の妻となっている。

松は常緑の木なので、永久とか不変という意味を表し、花の女性に対して男を表している。ずっと眺めている花は、しづ心なく散る桜ではなくて藤の花かな。
=上にもどる=
小野小町
百9(秀13)

花の色は
 うつりにけりな
 いたづらに
 わが身世にふる
 ながめせしまに


 
 T.6  = 仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人 =   
             「源氏物語」(桐壺)桐壺の女御のモデルたちか?
仁明天皇
(810〜833-850)

藤原冬嗣女・順子(808〜871)
「承和の変」の後に即位する第一皇子の道康親王(文徳天皇)の母
藤原総継
(?〜?)
女御・沢子
(?〜839)
第三皇子、時康親王(18・光孝天皇・830〜884-887)文徳、清和、陽成(869〜876-884〜949)の後に即位。
第四皇子、人康親王(831〜872)・16蝉丸か?
滋野貞主
(785〜852)
女御・縄子
(?〜?)
第五皇子、本康親王(?-901) 八条宮と称した
 香の調合に優れ、「源氏物語」(梅枝)において紫の上が「八条の式部卿の御方を伝へて」とある。
本康親王の孫娘・褒子が京極御息所となり、20元良親王(890〜943)が「わびぬれば」の歌を詠む。
紀名虎
(?〜847)
更衣・種子
(?〜869)
第七皇子、常康親王(雲林院宮)(?〜869)
雲林院はのちに15僧正遍昭(816〜890)に譲る
文徳天皇
(827〜850-858)

藤原良房女・明子(828〜900)
第四皇子でもって即位する惟仁親王(清和天皇・850〜858-876〜881)の母

良房(804〜872)は順子と同母兄弟
紀名虎
(?〜847)
更衣・静子
(三条町)
(?〜866)
第一皇子、惟喬親王(小野宮)(844〜897)
10業平(825〜880)が仕える

第31代伊勢斎宮、恬子内親王 清和天皇(859)即位から陽成天皇即位(876)まで斎院。母静子没後も退下出来ず。「伊勢物語」69段
滋野貞主
(785〜852)
宮人・奥子
(?〜?)
第三皇子、惟彦親王(850〜883)
=上にもどる=



在原業平朝臣
秀10(百17)

ちはやぶる 
神代も聞かず 
竜田川 
からくれなゐに
 水くくるとは
★ 在原業平朝臣 (825〜880) 六歌仙 (古今集 秋下294)
☆神代にも聞いたことがない。竜田川を真っ赤な紅葉が川面を敷き詰め、川の水はその下を潜っているとは。

清和天皇の女御となった藤原基経の妹である高子が御息所(陽成院の東宮時代)と呼ばれていた頃に、御屏風に描かれた紅葉の絵を題にして詠んだものである。 業平は、文徳天皇の時代には官位も上がらず不遇であったが12陽成天皇の代には蔵人頭になる。しかしその翌年に亡くなった。9行平と異母兄弟。在五中将、在中将と呼ばれた。

前トピックで述べた文徳天皇第一皇子の惟喬親王(844〜897)に仕えていた。業平は、「伊勢物語」の主人公と言われたりしている。

五句の「みすくくるとは」は、古来「括る」のか「潜る」のか問われてきているが、100定家としては潜るの方らしい。 「みす」も「水」より「御簾」として、逢瀬をかさねた人がもう手の届かない所へ行ってしまったと解釈した方が物語的にドラマチックだ。 伊勢に行ったり、東国に行ったり、物語は色々残るが実像はどのようであったのか

代表歌
「古今集」 (春上 53)
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

「古今集」 (恋五 747) 「伊勢物語」(四段)
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして

「古今集」 (恋三 632) 「伊勢物語」(五段)
人知れぬ 我が通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ
・人に知られないで密かに私が通う路の番人は、夜ごと居眠りでもしててほしいものだ。

これらの代表歌が撰ばれなかった理由は<北斗七星信仰>のページで述べた通りです。
=上にもどる=
蝉丸 
百10(秀16)

これやこの 
行くも帰るも
 別れては 
知るも知らぬも
 逢坂の関 


藤原敏行朝臣
秀11(百18)

すみの江の
 岸による波
 よるさへや
 夢の通ひ路
 人目よくらむ
★ 藤原敏行朝臣 (830?〜901?) (古今集 恋二559)
☆住ノ江の岸に寄る波のように寄る部屋へ通う路を夢の中でさえ人目を避けようとしておられるのですか。

 藤原南家の出であり書家として有名。清和、12陽成、18光孝、宇多、醍醐朝に仕える。小野道風(894〜967)が空海とともに古今最高の能書家として名を挙げた。 しかし現存する書は、神護寺鐘銘だけである。因みに、小野道風は、7参議篁の孫である。

敏行には次の有名な歌がある。
「古今集」 (秋上169)
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 
・秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音にハッとその到来に気がついたのだった。

敏行は、「宇治拾遺物語」によれば、多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りを書いたが、魚を食するなど、不浄の身のままで書写したので、 地獄に落ちて苦しみを受けたという。また、亡くなった直後に生き返り自らお経を書いて、再び絶命したという伝説もあったりる。

参議篁も夜になると地獄に行って閻魔大王の補佐をしたり、地獄に落ちた者を助けたなどと物語になっているが、どちらも地獄の話が出てくるのはそれだけ個性が強かったのか。

「古今集」 (哀傷833) 紀友則
 藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける   
寝ても見ゆ 寝でもみえけり おほかたは うつせみの世ぞ 夢にはありける
・寝ていても目覚めていても亡き人の姿が見える。夢と現実との差がないということは、大体のところ、現世の方こそ夢なのでしょう。

「古今集」において、藤原氏の名がつくものは21人いるが、敏行と31興風の二人は19首、17首と断トツに多く、 ほかは4首以下である。紀氏に近い敏行の藤原南家と、31興風の藤原京家は藤原四家の中では滅びていく家でした。
   =上にもどる=
参議篁(小野篁) 
百11(秀7)

わたの原 
八十島かけて 
こぎ出でぬと
 人には告げよ
 あまのつり舟


陽成院御製
秀12(百13)

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりける
★ 陽成院御製 (869〜876ー884〜949) (後撰集 恋三776)
☆筑波山の嶺から流れ落ちてくるみなの川の水が積もり積もって淵となるように、あなたへの恋も淵のように深い思いになってしまった。

「釣殿のみこ」に送った歌。「釣殿のみこ」は18光孝天皇の皇女綏子(すいし)内親王のことで、18光孝天皇は最初、子供たちをみな臣籍降下させたが 、同母の兄、源定省が親王宣下を受け、宇多天皇として即位(887年)すると内親王に戻った。陽成院は8歳で即位したが、16歳の時に精神の病によって乱行が多いことで退位させられ、 その後65年間を五代の天皇の代(18光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上)に上皇として過ごした。

「天つ風」の歌と合わせてみると、若かりし頃美しい乙女に一途に恋する男の情感を初々しく感じとれます。 陽成院が恋した綏子内親王は天女のように美しい人だったのでしょうね。

ところで「百人秀歌」には43首の恋の歌があるが各勅撰集にはそれぞれ詞書が添えられています。71番以降の恋の部立の歌は、 すべて歌合でのものや恋の心として詠ったものばかりですが、それ以前の歌には実際の臨場感あふれるものがあります。 多くは恨み、歎き、破綻に関するものですが、唯一成就しているのが、この陽成院と綏子内親王です。
   =上にもどる=
僧正遍昭 
百12(秀15)

天つ風
雲の通い路
吹き閉ぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ


小野小町
秀13(百9)

花の色は
うつりにけりな
いたづらに
わが身世にふる
ながめせしまに
★ 小野小町 (9世紀中頃) 六歌仙 (古今集 春下113)
☆美しい藤の花は色あせってしまった。春の長雨が降っている間に。私の容色も衰えてしまった。日々無為に過ごしている間に。

小野小町は、生涯誰とも添い遂げなかったようで、浮き草のような時勢に流されてしまったような人生だったのかもしれません。 美女の代名詞のように言われています。六歌仙の一人ですから、仁明、文徳、清和の代(仁明朝始833年〜清和朝終876年)の歌人であるだろうと言うこと以外何も分かっていません。

文徳天皇更衣の紀静子は後ろ盾の弱さから第一皇子である惟喬親王を天皇にすることができず藤原良房女を母とする第四皇子の清和天皇が践祚しました。 しかしその皇子である陽成天皇は退位させられてしまいます。この部屋は皮肉な組み合わせですね。

「古今集」 (恋五 797)
色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける 
・花や葉は色に見えて枯れていくのが分かるけれど、はっきりと見えずにうつろふものは世の中の人の心の花だったのですね。

28貫之が、仮名序で小野小町のことを、「しみじみと身にしみるような歌であるが、 強くはない。いわば、美しい女が病を得た風情に似てる。強くないのは、女の歌だからであろう。」と述べています。

陽成院の歌は深い思いが一気に流れ落ちて淵になっており好対照ですね。

「花」と言えば「桜」ですが、この歌の花もそうだったのでしょうか? 26「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」や101「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」のように慌ただしく散っていくのが桜です。

しかし、これは眺めているのです。眺めている間に容色が衰えていく美しい花と言えば藤の花ではないでしょうか。 この歌集に源氏物語の逸話となるような歌人や歌がある中で、藤壺の女御や紫の上を香らせる紫に関することがあっても良いと思っています。
   =上にもどる=
陽成院
百13(秀12)

筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて
淵となりぬる


 

 T.7  =式子内親王と定家 (恋の部立て)=

<百人秀歌と百ト一首>のページにおいて、秀76俊頼と百74俊頼の二つの歌が両集をつなげていると述べました。

<定家略年譜>のページでは、後堀河天皇より勅撰集編纂のご下命を賜った71歳「71・夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く」から最後までの31首はそれまでと また違った意図をもって並べたとも言及しました。

<北斗七星信仰>のページでは、秀70と百71の経信をはずして、72番から「天の川」は始まっています。

この<百人秀歌の歌人たち>のページを書き始めて13番まできてみると、43首の恋の部立てに入っている歌の詞書が気になり始めました。 特に今までの経過から72番以降の恋の歌は日々の生活の中から湧き出た歌ではなくなり、「歌合」の中での形式美の歌ばかり選ばれています。 それらの恋の部立の歌を書き出してみました。
番号 勅撰集    詞書と註
秀74 音に聞く高師の浜のあだ波は 
かけじや袖のぬれもこそすれ
金葉集 巻8 恋下 再奏本469 三奏本464 「堀河院御時艶書合によめる」 1102年  この歌は、「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそいはまほしけれ 中納言俊忠」の返歌 俊忠は定家の祖父
百74 憂かりける人を初瀬の山おろしよ
 激しかれとは祈らぬものを
千載集 巻12 恋二 708 「権中納言俊忠の家に恋十首の歌よみ侍りける時、祈れどもあはざる恋といへる心をよめる 源俊頼朝臣」
秀75 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 
恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ(百65)
後拾遺集 巻14 恋四 815 「永承6年内裏歌合に 相模」 1051年
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の 
われても末にあはむとぞ思ふ
詞花集 巻7 恋上 229  「題しらず 新院」 久安百首
秀78 長からむ心も知らず黒髪の 
乱れて今朝はものをこそ思へ
千載集 巻13 恋三 802 「百首の歌奉りける時、恋の心をよめる 待賢門院堀河」 久安百首
秀83 思ひわびさても命はあるものを 
憂きにたへぬは涙なりけり
千載集 巻13 恋三 818 「題しらず 道因法師」
85 夜もすがらもの思ふころは明けやらで 
閨のひまさへつれなかりけり
千載集 巻12 恋二 766 「恋の歌とてよめる 俊恵法師」
秀88 嘆けとて月やはものを思はする 
かこち顔なるわが涙かな
千載集 巻15 恋五 929 「月前恋といへる心をよめる 円位法師」 円位法師(西行)
秀89 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 
みをつくしてや恋ひわたるべき
千載集 巻13 恋三 803 「摂政 右大臣の時の家の歌合に旅宿逢恋といへる心をよめる 皇家門院別当」
秀90 きのくにのゆらのみさきに拾ふてふ
 たまさかにだに逢い見てしかな
新古今集 巻11 恋一 1075 「権中納言長方」
秀91 見せばやな雄島のあまの袖だにも
 ぬれにぞぬれし色はかはらず
千載集 巻14 恋四 886 「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院太輔」
秀92 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 
忍ぶることの弱りもぞする
新古今集 巻11 恋一 1034 「百首の歌の中に忍恋を 式子内親王」
秀94 わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 
人こそ知らねかわく間もなし
千載集 巻12 恋二 760 「寄石恋といへる心を 二条院讃岐」
秀100 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
 焼くや藻塩の身もこがれつつ
新勅撰集 巻13 恋三 849 「建保六年内裏の歌合、恋の歌 権中納言定家」
 
  ●「百人秀歌」の72番から101番の恋の歌 13首
71 72 73 74 おとにきく
金葉集
75 うらみわび後拾遺集 76 77 せをはやみ詞花集 78 ながからん千載集 79 80
81
82
83 おもひわび千載集 84
85 よもすがら千載集 86
87
88 なげけとて千載集 89 なにはへの千載集 90 きのくにの新古今集
91 みせばやな千載集 92 たまのをよ新古今集 93
94 わがそでは千載集 95 96
97
98
99 100こぬひとを新勅撰集
101
 
  ●「百ト一首」の72番から101番の恋の歌 12首 
71
72 おとにきく
金葉集
73 74 うかりける千載集 75 76
77 せをはやみ詞花集 78 79 80 ながからん千載集
81 82 おもひわび千載集 83 84 85 よもすがら千載集 86 なげけとて千載集 87 88 なにはへの千載集 89 たまのをよ
新古今集
90 みせばやな千載集
91 92 わがそでは千載集 93 94 95 96 97 こぬひとを新勅撰集 98 99 100
101
 
上の「百ト一首」の72番からの図を見た時、男女別で見てみると、式子内親王と定家が浮かび上がってきました。
≪女流歌人≫
1金葉集「おとにきく」(72) 祐子内親王紀伊
2千載集「ながからん」(80) 待賢門院堀河
3千載集「なにはえの」(88) 皇嘉門院別当
4千載集「みせばやな」(90) 殷富門院大輔
5千載集「わがそでは」(92) 二条院讃岐
★新古今集「たまのをよ」(89) 式子内親王

≪男性歌人≫
1詞花集「せをはやみ」(77) 崇徳院
2千載集「うかりける」(74) 源俊頼朝臣
3千載集「おもいわび」(82) 道因法師
4千載集「よもすがら」(85) 俊恵法師
5千載集「なげけとて」(86) 西行法師
★新勅撰集「こぬひとを」(97) 権中納言定家
 

定家は、この歌集の中で二人を昇華させたのです。10業平や20元良親王のように斎宮や御息所のもとへ通ったりする ことは無かったでしょう。10業平のような生き方に憧れたかもしれませんし、92式子内親王を歌人として認めていたので 師弟愛のようなものもあったかもしれません。100定家は、色々な思ひを「百ト一首」の中に収めることによって形式の中の永遠の愛にしてしまったのです。 のちの世の人々は、それを感じ取り能の「定家葛」などが創作されていったのでしょう。  =上にもどる=


喜撰法師
秀14(百8)

わが庵は
 都のたつみ
 しかぞすむ
 世をうぢ山と
 人はいふなり
★ 喜撰法師 (9世紀中頃) 六歌仙 (古今集 雑下983)
☆わたしの庵は都の東南にあり鹿も住んでいますが、このように自分らしく生きてます。でも人は私が憂しとして世を過ごしていると言うんです。

喜撰法師も六歌仙の一人ですが、「古今集」と「玉葉集」に一首ずつ残すのみです。先の<T.5 =他氏排斥事件(仮託の歌人たち)=>で述べたように土佐に流された紀夏井を仮託しているとしたが、 世の不条理さに心は乱れてしまったが思うに任せぬ生涯をそれなりに生き切ったのではないでしょうか。

宇治と言えば宇治平等院。元々は源融の別荘があったところです。藤原氏との覇権争いにも負けず左大臣まで登りつめます。 この歌は融の生きざまにも通ずる歌ですね。身分は違えども藤原家に翻弄された思ひは同じです。    =上にもどる=
河原左大臣
百14(秀17)

陸奥の
 しのぶもぢずり
 たれゆゑに
 乱れそめにし
 われならなくに


僧正遍昭
秀15(百12)

天つ風
 雲の通い路
 吹き閉ぢよ
 をとめの姿
 しばしとどめむ
★ 僧正遍昭 (816〜890) 六歌仙 (古今集 雑上872 良岑宗貞)
☆五節の舞の乙女たちのあでやかさに、舞も終わりに近づいてきて名残惜しくなり、その気持ちを乙女を天女に見立てて空を吹く風よ、 雲間の通路を吹き閉じて、しばし乙女を此処に留めておきたい。

なんて洒脱な歌いっぷりでしょう。五節の舞の起源は、天武天皇が吉野に行幸のおり、天女が天から下って舞を舞ったという伝説に基づいている。 この二つの歌を合わせると、羽衣、風、雲、雪、と白を基調とし、秋の新嘗祭の祝から冬に移り、今また早春へと初々しく情景が変わっている。

この歌は出家する前の良岑宗貞の時代のものです。 桓武天皇の孫であり、父は天皇の皇子良岑安世です。安世は仁明天皇の春宮大夫でした。皇后の順子(冬嗣女)と宗貞は祖母を同じくして又従兄の関係でした。 仁明天皇の御代が終わる850年に35歳で出家した。

光孝天皇は僧正遍昭の70歳の賀を主催している(885年)。この宴が後にXX後鳥羽院による87藤原俊成の90歳賀の基となったのです。

「古今集」 (賀 347)
仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御歌
かくしつつ とにもかくにも ながらへて 君が八千代に あふよしもがな  
・このようにこれからもあなたの賀宴を幾度も催しながら、どうにかこうにか生き長らえて、あなたの八千代の齢に巡り会いたいものだ。 
=上にもどる=
光孝天皇
百15(秀18)

君がため
 春の野に出でて
 若菜つむ
 わが衣手に
 雪は降りつつ


蝉丸
秀16(百10)

これやこの
 行くも帰るも
 別れつつ
 知るも知らぬも
 逢坂の関
★ 蝉丸 (生没年不詳) (後撰集 雑一1089)
☆これがまあ、京を出て東国へ行く人も、反対に京へ戻る人も、そしてお互いに知っている人も知らない人も、別れてはまた逢う、 あの有名な逢坂の関なのですね。

蝉丸のことはよく分かっていません。逢坂の関辺りに住んだ隠者らしく、琵琶法師だったらしい。

10番目では、10業平の歌と組んでおり、ここでは兄の行平と組んでます。弟は東へ行き、 兄は西に行ってますね。10業平は「源氏物語」の光源氏のモデルの一人とも言われ、また行平の須磨での蟄居は「源氏物語」須磨の巻の話の元になったと言われてます。

「続古今集」 (羈旅 868)
津の国すまといふ所に侍りける時よみ侍りける 中納言行平
旅人は 袂すゞしく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦波   
・袂に吹き込んできた風の涼しさにもう秋になってしまったと感じる。関所を吹き越えてゆく須磨の浦の風は自由で良いなあ。 旅人(行平)も京へ戻りたいと思うのでした。
=上にもどる=
中納言行平
百16(秀9)

立ち別れ
 いなばの山の
 峰に生ふる
 まつとし聞かば
 今帰り来む


         
 T.8  = 蝉丸 =
16蝉丸は、15僧正遍昭(816〜890)と17河原左大臣(源融)(822〜895)のあいだにいる。

8猿丸大夫と14喜撰法師の時の例<T.5 他氏排斥事件>で考えると、 蝉丸もこの時代の人ではないかと思うのですが8猿丸大夫や14喜撰法師のようなタイプの仮託の人ではなかったと思います。

盲目の琵琶の名手として、仁明天皇の第四皇子である人康(さねやす)親王という人がいます。18光孝天皇(830〜887)は同母兄です。

「新古今集」 (雑下掉尾歌1851) 蝉丸
世の中は とてもかくても 同じこと 宮も藁屋も はてしなければ 
・世の中はどの様に過ごしても所詮同じことです。素晴らしい宮殿であっても、みすぼらしい藁屋であっても、どのように住んでいても際限がないのですから。
人康(さねやす)親王(831〜872)。 仁明天皇の第四皇子。
859年出家。 法名は法性。山科に住む。 隠棲理由の病気は両目を患ったためか?

当道において、親王は琵琶の名手。

当道座とは、中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的互助組織。

のちの世には、琵琶法師の祖とされて、毎年,琵琶法師の最高位の人たちが集まって霊を慰めた。

946年?に創建された蝉丸神社の主祭神の蝉丸大神は、音曲芸道の祖神と仰がれた。

諸芸能の生業者に崇敬され、興業には当神社発行の免許が必要とされた。
逢坂の関の辺りに住む盲目の琵琶法師としての蝉丸のイメージが作られていったのか。「今昔物語」での敦実親王(宇多天皇皇子)の琵琶の名人であった雑色が逢坂山に住んでおり、管絃の名人であった源博雅(918-980)が通い詰めた話(年代が合わないですね)や はたまた醍醐天皇の皇子であるとか。「平家物語」、「能」、「人形浄瑠璃」などに取りあげられている。

人康親王の娘は、藤原基経との間に、時平、仲平、34忠平を儲けている。また娘の穏子は醍醐天皇中宮となり、朱雀天皇、村上天皇の生母となった。 =上にもどる=
   


河原左大臣
秀17(百14)

陸奥の
 しのぶもぢずり
 たれゆゑに
 乱れむとおもふ
 われならなくに
★ 河原左大臣(源融) (822〜895) (古今集 恋四724)
☆あの陸奥で作られるしのぶもじずりの乱れ模様のように私の心が乱れに乱れているは、誰のせいなんでしょう。 誰でもないあなたのために乱れているんですよ。

10番目では、この歌は「竜田川は関を潜るように紅葉の下を潜っていました」が、ここでは、「乱れ模様に呼応して括り染め」が良いですね。 8猿丸大夫の「奥山に紅葉を踏み分けるのは人か鹿か?」のように解釈はその時の状況に応じて多様性がある方が幅が広がると思います。

第四句「乱れ初めにし」−−−−−「伊勢物語」(初段)、「百ト一首」(百14)
第四句「乱れむとおもふ」−−−−−「古今集」(恋四724)、「百人秀歌」(秀17)

「百ト一首」に自分史をかさねた時に「伊勢物語」の10業平を意識したのかな。 相手の女性の知るすべもないが悲恋に終わったのは間違いないでしょう。

源融は、陸奥の塩釜を模して、難波から海水を運び込んで塩を焼かせたり、屋敷に幽霊なって出てきたり。 10業平も禁じられた恋に走ったり、9行平も須磨に蟄居したり、この二人は、「源氏物語」の中で生き続けています。

源融は、「源氏物語」の六条の屋敷のモデルとなったと言われている鴨川の東六条辺りに河原院という豪邸に住んでいました。宇治にあった別邸は、後に平等院になっています。
=上にもどる=
在原業平朝臣
百17(秀10)

ちはやぶる
 神代も聞かず
 竜田川
 からくれなゐに
 水くくるとは


光孝天皇御製
秀18(百15)

君がため
 春の野に出でて
 若菜つむ
 わが衣手に
 雪は降りつつ
★光孝天皇御製 (830〜884〜887) (古今集 春上21)
☆あなたのために春の野に出でて若菜を摘んでいます。そんな私の袖に雪が降りかかっていますよ。

光孝天皇は、仁明天皇の皇子。12陽成天皇の退位後、藤原基経によって55歳で即位した。基経とは母親同士が姉妹(沢子と乙春)なので従兄弟同士。基経が政治を 取り仕切り初の関白となった。宮中行事の再興に努め和歌隆興の祖となる。勅願寺建立を計画したが実現を見ないまま没した。 跡をついだ宇多天皇が仁和寺を創建した。

「すみの江の」の歌は、「寛平の御時きさいの宮の歌合」の時に詠われたものです。つまり光孝天皇の女御の班子女王(833-900)主催の歌合の歌。 寛平御時なので、宇多天皇の母とすべきか。実際は宇多天皇が企画したもの(889年頃?)。9行平の現存最古の「在民部卿家歌合」(880年頃?)の次に古い歌合とされている。

参加したのは、11藤原敏行、19伊勢、21源宗于、22素性法師、24壬生忠岑、25凡河内躬恒、26紀友則,28紀貫之、29坂上是則、30大江千里、 31藤原興風、38文屋朝康、在原棟梁(10業平男)、在原元方(棟梁男)など。次代の醍醐天皇の勅命による「古今集」(905年)の撰者が揃ってますね。
=上にもどる=
藤原敏行朝臣
百18(秀11)

すみの江の
 岸による波
 よるさへや
 夢の通ひ路
 人目よくらむ
   
        

 T.9  = 是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合・新撰万葉集 =

是貞親王(15光孝天皇第二皇子、母は班子女王)は、「新撰万葉集」の編纂に先立って宇多天皇(15光孝天皇第三皇子、母は班子女王)より託されて、その元となる「是貞親王家歌合」の撰定を行っている。現存してるのは秋歌71首。

「寛平御時后宮歌合」は(889年〜893年)、春、夏、秋、冬、恋の5題を各20番、あわせて100番200首という大規模なものであるが、歌合行事はなく、撰歌合(せんかあわせ)であったといわれる。そうでないと、「おくやまに」を詠んだ歌人が其処にいたことになります。 現存しているのは、193首。 「是貞親王家歌合」とともに、「新撰万葉集」に多数入集して、「古今集」の成立の前提となったものである。

「新撰万葉集」は、23菅原道真撰と言われている、和歌の漢詩訳集である。上・下2巻。序によれば,成立は上巻が893年(寛平5)。「菅家万葉集(かんけまんようしゆう)」とも言われる。現存しているのは、上巻が237首。

これらの歌合、「新撰万葉集」、「古今集」の詞書などと、この「百人秀歌」の入首歌を照らし合わせると関係するものが5首(5X1)ありました。

# # 初句 歌人名 出典 歌合、新撰万葉集、古今集の詞書と、この101首の歌集の関係
1 秀11 すみの江の 藤原敏行  古今集 恋二559 詞書どおり「寛平御時后宮歌合」の(186)に初句が、「すみよしの」としてあります。
2 秀30 つきみれば 大江千里 古今集 秋上193 詞書どおり「是貞親王家歌合」にあります。大江家は菅原家と同じく漢学者の家系です。
3 秀8 おくやまに よみ人しらず 古今集 秋上215 「是貞親王家歌合」にある筈なんですが有りません。「寛平御時后宮歌合」(82)と「新撰万葉集」(113)にはあります。
4 秀27 ふくからに 文屋康秀 古今集 秋下249 「是貞親王家歌合」にある筈なんですが有りません。「寛平御時后宮歌合」と「新撰万葉集」にもありません。
5 秀38 しらつゆに 文屋朝康 後撰集 秋中308 詞書では「延喜御時歌めしければ」となってますが、「寛平御時后宮歌合」(90)と「新撰万葉集」(87)にあります。
 

5首の内、2首は古今集の詞書通りとなっており、3首は詞書と違っています。

定省親王(宇多天皇)は、班子女王を同母とする第一皇子の是忠親王(21源宗干の父)や第二皇子の是貞親王がいるにもかかわらず第三皇子でありながら即位しました。これは藤原基経の異母妹の尚侍藤原淑子が、 班子女王と非常に親密な関係にあり、また定省親王を猶子にしていたことがあります。基経が望んでいたわけではなかったようですが。

六歌仙時代の27文屋秀康の歌を、「是貞親王家歌合」にて、と言うのは間違えたのではなく、 藤原家の排斥に巻き込まれた人たちの鎮魂歌として、自分たちを草木に例え、摂関家の人たちの陰謀を風に例えたのです。そしてその歌を「是貞親王家歌合」にて、ということにして 悲劇の親王たちの名も浮かび上がらせたのです。

28貫之男の紀時文は、「後撰集」の編纂の折に、38朝康の歌を延喜御時として、暗に23道真の左遷を匂わせているのではないでしょうか。100定家は、これらの事を承知していて、この「百人秀歌」と「百ト一首」を 合わせて読み解くと、摂関家から排斥された歌人たちの思ひを浮かび上がらせられる様にしたのではないでしょうか。 「古今集」の詞書が間違っているのではなく、そこに選者たちの思惑があったのかもしれません。

全105首の歌はすべて勅撰和歌集にあるということですが、勅撰集歌人としての8猿丸大夫の名はどこにもありません。 8番目の「おくやまに」の歌は、「古今集」ではよみ人しらずとなっています。 59藤原公任の「三十六人撰」に始まり、87俊成、100定家と受け継がれてきたものがあるのでしょう。 =上にもどる=



  
伊勢
秀百19

難波潟
 短き蘆の
 ふしの間も
 逢はでこの世を
 すぐしてよとや
★伊勢 (875?〜940?) (新古今集 恋一1049)
☆難波潟に生えている蘆の節と節との間のような短い間でさえあなたと逢わないでこの世を過ごせと言うのですか。

実際の蘆は、背丈は3mにもなるらしいです。節の間は当然長いでしょう。それを分かった上で、短きと、 ほんの少しの希望さえ抱かせることは出来ないのかと嘆いているのでしょうね。

伊勢守藤原継蔭女。中宮温子に仕え、宇多天皇との間に親王を生み、伊勢の御息所と呼ばれたが親王は夭折した。 のちに宇多上皇の第四皇子の敦慶親王との間に娘をもうけた。親王が中務卿だったので娘は中務(921?-991?)と呼ばれた。

伊勢、中務ともに59藤原公任の「三十六人撰」に選ばれている。平安時代初期の代表的女流歌人。

現存する「伊勢集」では、「いづれの御時にはありけむ」で始まるものがある。

「大和物語」は宇多天皇の退位と伊勢のやり取りから始まっており、「源氏物語」に多大な影響を与えていると思われる。 また「栄花物語」も宇多天皇から始まっている。

※「大和物語 全訳注」 雨海博洋・岡山美樹 講談社学術文庫 2006年
※「王朝女流歌人抄」 清水好子 新潮社 平成4年5月25日 3版発行
 =上にもどる=
伊勢
秀百19

難波潟
 短き蘆の
 ふしの間も
 逢はでこの世を
 すぐしてよとや


  
元良親王
秀百20

わびぬれば
 今はたおなじ
 難波なる
 みをつくしても
 逢はむとぞ思ふ
★元良親王(890〜943)  (後撰集 恋五960)
☆噂もたってこのように思い悩んでいるのですから、今はもう身を滅ぼしたのも同じです。 難波の澪標のように身を滅ぼしてもあなたにお逢いしたいものです。
この歌は「拾遺集 巻12 恋二 766 題しらず」として重複している。

12陽成天皇の第一皇子。出家後に生まれたので天皇への道はきびしかった。宇多天皇の京極御息所であった褒子(藤原時平女)との密会が露呈したのちに送った歌。

宇多天皇の第四皇子の敦慶親王(888-930)や40中納言敦忠(906〜943)などとともに同じ時代を生き、「源氏物語」の数多くあるモデルの中に生きています。残っている和歌も多くは恋の贈答歌です。

「大和物語」では、元良親王は故兵衛卿の宮、褒子は京極の御息所、敦慶親王は故式部卿の宮。
   =上にもどる=
元良親王
秀百20

わびぬれば
 今はたおなじ
 難波なる
 みをつくしても
 逢はむとぞ思ふ


  
源宗干朝臣
秀21(百28)

山里は
 冬ぞ寂しさ
 まさりける
 人目も草も
 かれぬと思へば
★源宗干朝臣 (880?〜939?)  (古今集 冬315)
☆山里では都と違って、冬は殊更に寂しさがまさるように感じます。人が尋ねることもなく草も枯れてしまうと思うと。

宗干は、18光孝天皇第一皇子の是忠親王男。源氏に臣籍降下した。「寛平后宮歌合」や「是貞親王家歌合」などの歌合に参加。19伊勢 や 28紀貫之と親交があったようだ。「古今集」での源氏の歌人は7人いるが、宗之が最多の6首選ばれている。

二つの歌を合わせると、すぐに行くよと言ってからずっと待ち続けて、やがて草木も枯れて人の往来も途絶え、冬こそ寂しさは増すばかりですということになり、 この場では、22素性法師の歌は月来説(つきごろせつ)となります。

「大和物語」 (39段)に宗干の歌として、(伝本により初句、二句が異なる)
おく露の ほどをも待たぬ 朝顔は 見ずぞなかなか あるべかりける

「新勅撰集」 (恋三 820)
しらつゆの をくをまつまの 朝顔は 見ずぞなかなか あるべかりける
・ほんの僅かなはかない逢瀬なら、むしろあなたに逢わなければよかった、なまじ逢ったばかりに苦しい思いをすることだ。

待ち続ける苦しさもあれば、なまじ逢ったばかりの苦しさもあり、離れてしまう苦しさも。逢わなければこういう苦しさを味わうこともなかったでしょうに。

「枕草子」三十三 小白河といふ所は 
この段の最後に藤原義懐(43伊尹五男)が花山天皇退位・出家後に出家したという記述に「おくを待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ...とある。 100定家は、「枕草子」の記述により「新勅撰集」に「しらつゆの」の歌を選んだのでしょうか。 すると「山里は」の歌に義懐の出家後の姿が重なってきたりして時代が交錯していきます。
=上にもどる=
素性法師
百21(秀22)

今来むと
 いひしばかりに
 長月の
 有明の月を
 待ち出でつるかな


  
素性法師
秀22(百21)

今来むと
 いひしばかりに
 長月の
 有明の月を
 待ち出でつるかな
★素性法師 (845?〜909?)  (古今集 恋四691)
☆すぐに行こうと、あなたが言うから待っていたのに、待ち明かして暁を迎えてしまい、有明の月を見ることになってしまった。

15僧正遍昭男。父が出家した時に兄と共に一緒に出家した。15僧正遍昭は850年35歳の時に出家したので、 素性法師が5,6歳の時のはず。素性は父と共に常康親王(父仁明天皇と母紀種子)が出家して住んでいた雲林院を受け継ぐ。 紀名虎の娘である種子は、10業平が仕えた惟喬親王(父文徳天皇)の母である紀静子と姉妹である。T.6=仁明・文徳朝の女御、更衣、宮人= 素性は後に一人大和国(奈良県)の石上にある良因院に移り住んだ。

昌泰元年(898年)、宇多上皇が奈良に御幸したさいに召され、共に旅して各所で歌を奉った。この時、23菅原道真もおり、T.4=羇旅・離別の歌=。大宰府左遷の3年前のことでした。

仁明天皇から寵愛を受けた常康親王は「古今集」に1首残しています。
「古今集」 (恋781) 雲林院親王 
吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の うつりもゆくか 人の心の  
・吹き荒れる野風が寒いので秋萩が色移ってゆく。その様に人の心も移ろうのか。

21番目と異なり、ここでは、9月のある日の夜の出来事と捉えて一夜説です。今日の約束を破られた人の心は嵐です。 常康親王の歌のあとでは、康秀の歌も恋の歌のように思えてきます。
   =上にもどる=
文屋康秀
百22(秀27)

吹くからに
 秋の草木の
 しをるれば
 むべ山風を
 あらしといふらむ


  
菅家
秀23(百24)

このたびは
 幣もとりあへず
 手向山
 紅葉の錦
 神のまにまに
★菅家(菅原道真) (845〜903) (古今集 羈旅420)
☆急な旅立ちだったので、幣を用意する暇がなかった。神様、この手向山の美しい錦のような紅葉を幣として心のままにお受けください。

昌泰元年(898)、宇多上皇が奈良へ御幸した時に菅原道真も供をして、その時に詠んだ歌。

二人とも漢学者ですね、そして歌人でもあり歌を残しています。 千里の歌は「白氏文集」にある漢詩を翻案して詠まれたもの。

道真は左大臣藤原時平(871-909)の他氏排斥策「昌泰の変」(901年)で大宰府に送られ失意のうちに亡くなくなったが<T.5=他氏排斥事件=>、 死後、正一位太政大臣を送られ、神として北野神社に祭られた。

「拾遺集」 (雑春 1006) 贈太政大臣
流され侍ける時、家の梅の花を見侍て
東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな 
・もし東風が吹いたならば、私の所まで風を託して匂いを送ってください。家の主がいなくても花の咲く春をわすれないで。

「更級日記」の作者と言われている菅原孝標女は道真の五世にあたる孝標の娘で、74祐子内親王家紀伊などと同じく祐子内親王(後朱雀天皇皇女1038-1105)に仕えた。
=上にもどる=
大江千里
百23(秀30)

月見れば
 ちぢにものこそ
 悲しけれ
 わが身ひとつの
 秋にはあらねど


 
 T.10  = 菅原家と藤原長良・良門流 =

昌泰の変<T.5=他氏排斥事件=>により、道真は大宰府に没し、子供たちも配流になりますが、 その後許されて京に戻ってきます。長男の高視系は学者の家として文章博士となり、侍読を務める者もあらわれ鎌倉時代初期には100定家と関わってきます。

  家系図の記号:   || 子孫、 ++++婚姻関係、  ・・・・・兄弟、
                         
23菅原道真
(845-903)
(長良流高経家)
基経(836-891)
良房養子
(長良流清経家)
||
||
||
||
時平(871-909) ||
||
|| || ||
淳茂あつしげ
(道真五男)
・・ 高視たかみ 一時期土佐に配流
(道真長男・876-913)
藤原倫寧ともやす
(?-977)
藤原文範
(909-996)
||
||
||
||
||
||
||
||
在躬
ありつね
雅規
まさのり
(?-979)
・・・ 文時
ふみとき
(899-981)
||
  ・・・
倫寧女 +++ 藤原為雅
・・ 藤原為信
||
||
||
||
||
||
文時の詩は「和漢朗詠集」(59公任撰)に日本作者では最も多い。唐作者では白居易。拾遺集に一首。


||
||
||
輔正すけまさ
(925-1009)
参議(996年)
円融天皇
花山天皇
両天皇の侍読
資忠
すけただ
(936-989)
56
道綱母
「蜻蛉日記」
(937?-995)
藤原為時
(良門流利基家)
(949?-1029?)
菅原文時の門下生
+++++ 為信女
||
||

||
||
孝標
たかすえ
(972-?)
+++ 倫寧女 ・・・ ・・・・・ 惟規
のぶのり
・・・ 64
紫式部
「紫式部日記」
||
||
孝標女
「更級日記」
(1008-1059?)
・・・ 定義
さだよし
(1002-1065)
+++++ 50
実方の女
  ||
  ||
在良ありよし
(1041-1121)
「新勅撰集」に三首
鳥羽天皇の侍読
・・・・・・      ・・・・・・・・・・・・・・・・ 是綱
(定義長男)
||
||
||
||
藤原信成
(良門流高藤家)
+++ 在良女 ・・・ 花園大臣家
小大進
宣忠
||
||
||
||
||
||
91
殷富門院大輔
(1130?-1200?)
小侍従
(1121-1202)
長守
||
||
為長の任参議(1235年)は輔正(23菅原道真ひ孫)の996年の任参議以来239年ぶり。
土御門・XX順徳・後堀河・四条・後嵯峨の5代の天皇に亘り侍読を務める。
九条家の家司として仕え、同じく家司の100定家より高く評価される。
為長
(1158-1246)
土御門天皇より五代の侍読
 
23菅原道真は993年5月に正一位左大臣を贈られ、10月に太政大臣を贈られた。 =上にもどる=


  
壬生忠岑
秀24(百30)

有明の
 つれなく見えし
 別れより
 暁ばかり
 憂きものはなし
★壬生忠岑 (870?〜930?)  (古今集 恋三625)
☆後朝の別れの朝、有明の月は無情に感じられて、それ以降、暁ほど辛く悲しいものはありません。

冷静で平気な顔をしているのが月で、後朝の愛おしい別れの気持ちと対比させているのが100定家の解釈。 古今集では「来れど逢わず」の歌の中にあるので、会おうともしない女性をつれないと言っている。

自然界のそこに存在するだけの無情なものに、わが身を照らしたり、置き換えたり、 身勝手な自分の感情や状況をその無情のものに託することで救いを求めているのでしょうか。

藤原定国の随身を務めたことがある。卑官を歴任。「古今集」の選者の一人。 XX後鳥羽院が、99家隆と100定家に「古今集」の秀歌を問うたところ、 二人ともこの歌を推した。「古今著聞集」では、陰明門院(土御門天皇中宮)が問うたことになっている。 どちらにしても99家隆、100定家はこの歌を高く評価していた。

「大和物語」125段
右大将藤原定国の随身として供していた時に、急に左大臣時平(871-909)を訪ねた。その時に忠岑が詠んだ歌、
かささぎの わたせる橋の 霜の上を 夜半に踏みわけ ことさらにこそ 
・御殿の階段に置いた霜の上を、この夜中に踏み分け、わざわざやってきました。よそに行ったついでに来たわけではありません。

この歌によって、「5・かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」の歌が宮殿の御橋に例えられるようになったわけですが、やはり天空でないと天の原と対比できないですよね。 壬生忠岑は、歌を気に入られて時平よりご褒美を賜ったそうな。その主人の定国(866-906 35定方兄)は時平(871-909)と同じく道真左遷に関わった一人です。
=上にもどる=
菅家
百24(秀23)

このたびは
 幣もとりあへず
 手向山
 紅葉の錦
 神のまにまに


  
凡河内躬恒
秀25(百29)

心あてに
 折らばや折らむ
 初霜の
 置きまどはせる
 白菊の花
★凡河内躬恒 (870?〜930?) (古今集 秋下277)
☆だいたいの見当をつけて折ることができるなら折ってみましょうか。初霜が降りて霜か菊か見分けがつかなくなっている中で、白菊の花を。

菊は中国からの輸入品です。万葉集には一例もありません。平安初期に漢詩文に導入された後に和歌にも詠まれるようになったみたいです。卑官で あったが歌にすぐれ,「古今集」の選者の一人です。28紀貫之と親しく、ともに35三条右大臣邸に出入りした。

早朝の初霜と菊の花の白さ。見当を付ける曖昧さ。もう一方の歌は、夜の闇。さねかづらの赤い実。手繰り寄りたい一念。好対照の歌です。

「大和物語」(5段) 大輔
わびぬれば 今はたものを 思へども 心に似ぬは 涙なりけり
・私は、これまでずっと悲しみぬいたので、(このめでたい日に)もう泣くまいと思ったけど、(それでも)心のままにならないのは、あふれ出る涙でした。

「新勅撰集」(恋四 884) 凡河内躬恒
わびぬれば 今はとものを 思へども 心しらぬは 涙なりけり
・思い煩いどうしようもなくなったので、もはやこれまでとあなたのことを忘れようと思うのだけど、 忘れようとしている私の心を知らなくて涙がこぼれる。

100定家は、この歌は躬恒が歌合で詠んだものなので、大輔より先に詠んでいると判断して「新勅撰集」に躬恒の歌として入れたようだ。
=上にもどる=
三条右大臣
百25(秀35)

名にし負はば
 逢坂山の
 さねかづら
 人に知られで
 くるよしもがな


  
紀友則
秀26(百33)

ひさかたの
 光のどけき
 春の日に
 しづ心なく
 花の散るらむ
★紀友則 (850?〜905) (古今集 春下84)
☆陽がのどかに射してる春の日に、どうしてそんなに落ち着きもなく慌ただしく桜の花は散るのでしょう。

紀友則は28貫之といとこ同士ですが、かなり歳上です。「古今集」の選者に選ばれたが古今集完成前に没した。28貫之と24壬生忠岑が哀傷歌を残しています。

「古今集」 (哀傷歌 838) 貫之
紀友則が身まかりにける時よめる
明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそかなしかりけれ 
・明日の命も分からない儚い我が身と思うものの、日の暮れない間の今日は、あの人のことが悲しく思われるのです。

「古今集」 (哀傷歌 839) 忠岑
時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを 
・時もあろうに、よりによって秋に人と死に別れるということがあってよいものか。生きていて会うことができる場合にさえ、秋という季節は、会って別れると恋しい気持ちになるのに。

春の桜と秋の紅葉と対照的に組み合わせで、どちらも慌ただしく散っていくものですが、紀氏の桜は慌ただしく散っていき、 藤原家の紅葉は、今ひとたびの御幸のために留まらせようとしています。
=上にもどる=
貞信公
百26(秀34)

おぐら山
 峰のもみぢ葉 
心あらば
 今ひとたびの
 みゆき待たなむ


  
文屋康秀
秀27(百22)

吹くからに
 秋の草木の
 しをるれば
 むべ山風を
 あらしといふらむ
★文屋康秀 (840?〜893?) 六歌仙 (古今集 秋下249)
☆吹くやいなやすぐに秋の草木がしおれるので、だから山から吹く強い風を嵐というのですね。

古来、この歌は息子の38朝康が詠んだと言われてます。六歌仙の歌人は10番代に並んでいますが、 康秀だけがずっと後の27番にあるのは何か理由があるのでしょうか。 対になっている兼輔の歌が、元々は詠み人知らずの歌だったと言われていますし、 100定家は、どちらの歌も作者は違う人なんだよと言いたかったのでしょうか。
           
歌順 初句 出典  六歌仙歌人名
1 秀10 ちはやぶる  古今集 秋下294  在原業平 
2 秀13 はなのいろは  古今集 春下113  小野小町 
3 秀14 わがいほは  古今集 雑下983  喜撰法師  
4 秀15 あまつかぜ  古今集 雑上872   僧正遍昭 (良岑宗貞) 
5 秀27 ふくからに  古今集 秋下249  文屋康秀 

天武天皇の皇子の一人である「万葉集」に歌を五首残している長皇子が臣籍降下して文屋(文室)姓を賜っている。康秀はその五代後になる。

征夷大将軍の坂上田村麻呂と共にいた文室綿麻呂、恒貞親王(淳和天皇皇子)が皇太子を廃された「承和の変」の時に春宮大夫であったがために連座して左遷させられた文室秋津などがいる。 100定家は天武系の名門の名を残したかったのでしょうか。 11首後にある息子の朝康の38「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」の歌とともに排斥されていく家を象徴しているようです。
=上にもどる=
中納言兼輔
百27(秀36)

みかの原
 わきて流るる
 いづみ川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ


  
紀貫之
秀28(百35)

人はいさ
 心も知らず
 ふるさとは
 花ぞ昔の
 香ににほひける
★紀貫之 (872?〜945?) (古今集 春上42)
☆さあ、あなたのお気持ちは分かりませんが、古里の奈良に咲く梅の花は昔からと同じように香っています。

古今集時代の代表的歌人であり、仮名文学の先駆者。「古今集」の仮名序を書いた。「新撰和歌集」の撰者。 「土佐日記」の作者。「竹取物語」も紀貫之かなと思ったりしてます。

醍醐の御代に、身分は低く、60歳前後で土佐の守になった。 紀貫之が土佐の守となって京を離れていた数年の間(930〜935)に、醍醐天皇、宇多法皇、35定方(三条右大臣)、 36藤原兼輔、母と次々と亡くなった。そして土佐では最愛の娘も...。 36兼輔男の、雅正(紫式部の祖父)と親しくしていたようですが、あいたいする「山里の」の歌は、紀貫之の晩年そのもののような歌です。

息子の紀時文(きのときぶみ)は、梨壺の五人の一人となり、「後撰集」編纂に関わった。

娘の紀内侍は、「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事で名が挙がり「紅梅の内侍」とも例えられます。

「大鏡」第六巻 昔話七 
村上天皇に庭の紅梅を求められて、
勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかゞ答へむ
・勅命であるならこの紅梅を献上することを断るのは畏れ多いことですが、 毎年この梅の枝に宿る鴬が、我が宿は如何したかと問うたならば、さてどう答えたらよいのでしょうか。

この歌を示した逸話で三才女(紀内侍・65伊勢大輔・66小式部内侍)の一人とされる。
ただし、拾遺集(巻九 雑下531)に名は記されてない。
=上にもどる=
源宗干朝臣
百28(秀21)

山里は
 冬ぞ寂しさ
 まさりける
 人目も草も
 かれぬと思へば


  
坂上是則
秀29(百31)

朝ぼらけ
 有明の月と
 見るまでに
 吉野の里に
 降れる白雪
★坂上是則 (880?〜930?) (古今集 冬332)
☆夜がほのぼのと明ける頃、有明の月がまだ差しているかと思うほど吉野の里に降り敷いた雪の白さよ。

蝦夷征伐に功のあった坂上田村麻呂の子孫。蹴鞠の名手。

28貫之の息子と同様に息子の坂上望城(さかのうえのもちき)は、「梨壺の五人」の一人となり「後撰集」編纂に関わった。

月の明かりかと思って外を見ると早朝の白雪であるという空気の張り詰めた静寂さと、 早朝の初霜の清々しさの中の白菊の清楚さと相重なって桜も紅葉も何も無い世界です。雪景色を月明かりかと見立てたり、 初霜が菊を区別できなくしようとしていると擬人化したりと、古今集時代の情緒ある表現方法だったのでしょうね。

是則の代表歌、
「古今集」 (冬 325)
み吉野の山の白雪つもるらしふるさと寒くなりまさるなり 
・吉野の山に日に日に雪が積もっているらしい。この奈良では寒さが一段とつのっています。
=上にもどる=
凡河内躬恒
百29(秀25)

心あてに
 折らばや折らむ
 初霜の
 置きまどはせる
 白菊の花


  
大江千里
秀30(百23)

 月見れば
 ちぢにものこそ
 悲しけれ
 わが身ひとつの
 秋にはあらねど
★大江千里 (860?〜922?) (古今集 秋上193)
☆秋の月を見ると、いろいろな思ひがこみ上げて悲しくなります。 なにも私一人のための秋ではないと分かっているのですが

漢学者大江音人の男。「句題和歌」(大江千里集)を宇多天皇に詠進。官位は低く、六位兵部大丞。

醍醐天皇の侍読を務めた弟の千古がおり、千古のひ孫が63赤染衛門の夫、大江匡衡であり、 さらに匡衡のひ孫が72大江匡房です。 千里自身は大江家から少し外れて自由に生きたのかな。

どちらの歌も月は無情に輝いています。誰のものでもないと分かっているのに月を見ながら思ひは色々馳せますね。 この月同士の組み合わせは、86番目に「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」と「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」があります。
=上にもどる=
壬生忠岑
百30(秀24)

有明の
 つれなく見えし
 別れより
 暁ばかり
 憂きものはなし


  
藤原興風
秀31(百34)

たれをかも
 知る人にせむ
 高砂の
 松も昔の
 友ならなくに
★藤原興風 (870?〜920?) (古今集 雑上909)
☆一体誰を昔からの友としましょうか。年老いた今、同じような高砂の老い松がいるが、 その松だって昔からの友ではないのですから。

最古の歌学書「歌経標式」の作者、藤原浜成(京家)の永谷系のひ孫。官位は低かったが、寛平御時后宮歌合など歌界で活躍した。「古今集」では 17首入選と、11藤原敏行(南家)の19首と同じように藤原家では飛びぬけて多い。

興風の歌には高砂の松と比べる長寿さが本来ならめでたいことなのに、 無情の松と語り合うわけでもなく孤独の波に押し寄せられて深い歎きが込められています。 月であるなら自分の身を反映させて語ることも出来るでしょうが窓の外の無言の白い雪では無情でしかない。どちらも語り合えません。

浜成男、大継女の河子は桓武天皇の宮人となって仲野親王(792-867)の母となり、その親王女、班子女王(833-900)は18光孝天皇の皇后となって宇多天皇の母となった。
=上にもどる=
坂上是則
百31(秀29)

朝ぼらけ
 有明の月と
 見るまでに
 吉野の里に
 降れる白雪
 


  
春道列樹
百32(秀32)

山川に
 風のかけたる
 しがらみは
 流れもあへぬ
 紅葉なりけり
★春道列樹(880?〜920?) (古今集 秋下303)
☆山の中の川に風が自然にかけた柵は、流れようとして流れない紅葉だった。

「古今集」 (冬 341)
きのふとひいけふと暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり 
・昨日、今日と一日一日暮らして、明日新年を迎える。飛鳥川の流れが速いように月日が流れるのもなんと早いことでしょう。

理屈っぽい歌も残されているが、何故、秀百32の不動の歌がこれなんでしょうか。32番が不動なのは、 <定家略年譜>で言及したように、定家32歳の時に母の美福門院加賀が亡くなったからでした。 しかし、なぜ春道列樹が撰ばれたのでしょうか。

後に出てくる35三条右大臣定方は、良門流高藤男で母は宮道列子です。定方姉の胤子は宇多天皇の女御になり醍醐天皇の母となります。高藤と列子の出会いは、「今昔物語集」に 詳しく語られています。※「田辺聖子の今昔物語・雨宿りで会った少女」(角川文庫 平成二十年)。紫式部は「明石」の巻にこの自分の先祖に関わることを取り入れたと言われてます。

春道列樹と宮道列子って似てません?高藤と列子の夢のようなお話を、 64紫式部のために「源氏一品経書写供養」を主催したりしていた亡き母(美福門院加賀)に捧げたのでしょうか。
=上にもどる=
春道列樹
百32(秀32)

山川に
 風のかけたる
 しがらみは
 流れもあへぬ
 紅葉なりけり 


  
清原深養父
秀33(百36)

夏の夜は
 まだ宵ながら
 明けぬるを
 雲のいづくに
 月宿るらむ
★清原深養父 (880?〜930?) (古今集 夏166)
☆夏の夜は短いので、まだ宵のうちと思っている間に夜が明けてしまった。月は間に合わなくて雲のどのあたりに宿っているのかな。

深養父は、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るった舎人親王の子孫、清原氏です。天武系ですね。 45元輔の祖父、60清少納言の曽祖父です。官位は低く28貫之を通じて35定方や36兼輔の庇護を受けていたようです。

夏の夜は、月はついていけないのではと感じるくらい短く、春の日差しはのどかなのに桜は慌ただしく散っていきます。 どちらの歌も心穏やかでなく落ち着かなさがあります。

定家は、「古今集」から24首を選びましたが、この「なつのよは」が24首目の歌です。 「古今集」編纂中に没した友則も深養父と同様に59藤原公任の「三十六人撰」に選ばれませんでした。
=上にもどる=
紀友則
百33(秀26)

ひさかたの
 光のどけき
 春の日に
 しづ心なく
 花の散るらむ 


  
貞信公
秀34(百26)

おぐら山
 峰のもみぢ葉
 心あらば
 今ひとたびの
 みゆき待たなむ
★貞信公 (880〜949) (拾遺集 雑秋1128)
☆小倉山の紅葉よ、もし心があるのなら、次は天皇の行幸があるのでそれまで散らないで待っていてください。

散っていく紅葉に、長寿の松のように散らないでいてくれと祈る藤原北家は太政大臣忠平の子孫が栄華を極めていきます。

貞信公(藤原忠平)は、12陽成院を退位させ宇多天皇ともめた基経の四男であり、23菅原道真を大宰府に左遷した時平の弟。時平の没後、政権をとり、 「延喜の治」と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇(923〜930-946〜952)の代に摂政、次いで関白に任じられ、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。朱雀の代には、 平将門、藤原純友による乱「承平天慶の乱」が起きた。 忠平と28紀貫之はほぼ同時代の人です。最後は従一位関白太政大臣まで昇りつめましたが、村上天皇の代になって3年後に没しました。

平将門(?〜940)は地方より15、16歳のころ京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平を私君とした時期がありました。
=上にもどる=
藤原興風
百34(秀31)

たれをかも
 知る人にせむ
 高砂の
 松も昔の
 友ならなくに 


  
三条右大臣
秀35(百25)

名にし負はば
 逢坂山の
 さねかづら
 人に知られで
 くるよしもがな
★三条右大臣(藤原定方) (873〜932) (後撰集 恋三700)
☆逢坂山の「さねかづら」が負っている「逢って寝る」というその名の通りなら人に知られないで繰るように行きたいものです。

三条右大臣(定方)は、醍醐天皇の外叔父、44朝忠の父 管絃にすぐれ、歌人として有名。36兼輔とともに専門歌人の25凡河内躬恒、28貫之、33深養父らを庇護した。

なんとしても女性の所へ行く方法はないものかと実かずらの名の持つ意味に願いを込めているが、「ひとはいさ」の方は、 女性とご無沙汰していたことを皮肉られたので返した歌。つる性常緑低木のさねかづらと落葉高木の梅と植物同士でも対比させたのでしょうか。

藤原北家良門流もしぶとく時代を生き抜いていきますが主流から外れていきます。

「新勅撰集」 (秋上 243) 「大和物語」(29段) 三条右大臣
式部卿敦慶親王のみこの家に人々もうできて、あそびなどし侍けるに、をみなへしをかざしてよみ侍りける
をみなへし おるてにかゝる しらつゆは むかしのけふに あらぬなみだか 
・女郎花よ、それを折る手にかかる白露は 今日が昔の今日でないことを嘆く涙であろうか。

・式部卿敦慶親王(887〜930)は宇多天皇の皇子、醍醐天皇の弟。母は高藤女の胤子。定方の甥にあたる。光玉宮と呼ばれた。 「好色無双の美人」と評され、「源氏物語」の光源氏のモデルの一人。「後撰集」にのみ3首残している。20元良親王のような激しさはなかったのか。
=上にもどる=
紀貫之
百35(秀28)

人はいさ
 心も知らず
 ふるさとは
 花ぞ昔の
 香ににほひける 


  
中納言兼輔
秀36(百27)

みかの原
 わきて流るる
 いづみ川
 いつ見きとてか
 恋しかるらむ
★中納言兼輔 (877〜933) (新古今集 恋一996)
☆みかの原を分けて湧きでて流れるいづみ川、その「いつみ」ではないけど、いつ見たと言って恋しいのでしょうか。

鴨川の堤に邸があったので、堤中納言と称された。25凡河内躬恒、28紀貫之などと歌人グループを形成していた。清原深養父は、琴の名手であり、「後撰集」には琴を弾くのを 聴きながら、藤原兼輔と28紀貫之が詠んだという歌が収められている。

「後撰集」 (夏 167) 藤原兼輔朝臣
夏夜、深養父が琴ひくを聞きて
短か夜の ふけゆくまゝに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ聞く 
・短い夏の夜が更けゆくにつれて、中国の詩に言うように、峰の松風が吹いているのではないかと、この琴の音を聞いてしまいますよ。

100定家は、「後撰集」のこの歌からこの夜の宴に思いをはせて深養父の歌を選んだのでしょうか。享楽はあっという間に過ぎていきます。

この歌は、87俊成撰の「三十六人撰」、XX後鳥羽院撰の「時代不同歌合」には兼輔の代表歌の一つになっていますが、 どうもよみ人知らずの歌なのに間違えて兼輔の詠んだ歌としてしまったようなんです。 最初に「三十六人撰」を選んだ59藤原公任は、次の歌を代表歌の一つにしています。

「後撰集」 (雑一 1102) 兼輔朝臣
人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬる哉 
・親の心は、闇というわけではないのに、他のことは何も見えなくなって、子を思う道にただ迷ってしまいます。

「新勅撰集」 (雑三 1225) 「大和物語」(71段)
式部卿敦慶のみこ、かくれ侍にけるはるよみ侍ける 中納言兼輔
さきにほひ かぜまつほどの やまざくら 人の世よりは ひさしかりけり
・咲き匂い風を待つ間の山桜よ、人の一生よりは長いのであったよ。
=上にもどる=
清原深養父
百36(秀33)

夏の夜は
 まだ宵ながら
 明けぬるを
 雲のいづこに
 月宿るらむ 

 
   
 T.11 = 大和物語 =
「大和物語」は10世紀中頃に成立し、通常173段の章段からなる歌物語です。前編と後編から成り、前編は、 宮廷歌物語、後編は、伝説や口碑による悲話などが語られています。

宇多天皇の出家間近の19伊勢の悲しみの歌に始り、15遍昭の出家と放浪にて終わります。

 「古今集」‐‐‐‐‐‐‐‐「伊勢物語」 (惟喬親王、在原氏、紀氏)
 「後撰集」・「拾遺集」‐‐‐‐「大和物語前編」 (宇多上皇、醍醐天皇、親王、藤原氏)

ところで、46源重之は10世紀末に没した人ですが、重之がこの物語の関係人物の中で没年順では一番遅い人になります。 「大和物語」の中の歌のみならず語りの箇所だけの登場や姻戚関係など関係する歌人は100人余りいますが、 そのうち20人(5X4)が、「百人秀歌と百ト一首」に入っています。 歌は300首近くありますが一首しか撰ばれていません。

定家が編纂した「新勅撰集」においては、「大和物語」より16首、13人の歌人を撰んでいます。 そのうち5人(5X1)がこの歌集に入ってます。名前の色を変えています。


※「大和物語の人々」 雨海博洋、ヤマザキ正伸、鈴木佳與子 笠間選書 昭和54年発行
※「大和物語 全訳注」 雨海博洋・岡山美樹 講談社学術文庫 2006年
 =上にもどる=
           
忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな  39右近
3 人麻呂 10 在原業平 12 陽成院 13 小野小町 15 僧正遍昭
19 伊勢 20 元良親王 21 源宗干朝臣 24 壬生忠岑 25 凡河内躬恒
26 紀友則 28 紀貫之 34 貞信公 35 三条右大臣 36 中納言兼輔
39 右近 40 権中納言敦忠 41 平兼盛 44 中納言朝忠 46 源重之
 

  
参議等
秀37(百39)

浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
★参議等 (880〜951) (後撰集 恋一577)
☆浅茅が生えてる小野の篠原、その「しの」ではないけれど、もうこれ以上忍びきれません。どうしてこんなに恋しいのでしょう。

嵯峨源氏。中納言希の男。村上天皇が践祚し、翌年の天暦元年(947年)、68歳で参議に任じられ公卿に列する。 後撰集のみに4首残しているが、「源ひとし朝臣」と記されている。

次に続く秀38番、秀39番と合わせて、三首の歌がリンクしてます。
       
秀番号 百番号
38 白露に風の吹きしく秋の野は 
つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
37
39 忘らるる身をば思はずちかひてし 
人の命の惜しくもあるかな
38
37 浅茅生の小野の篠原しのぶれど
あまりてなどか人の恋しき
39

忍び切れない恋の始まりから、やがて神に誓ったことに対する裏切りの為に命の心配をされるようになり、 その命も草の上の露のごとくあっさりと飛び散ってしまいます。永遠のリンクです。
=上にもどる=
文屋朝康
百37(秀38)

白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける

  
文屋朝康
秀38(百37)

白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける
★文屋朝康 (870?〜910?) (後撰集 秋中308)
☆草の上に置く白露に風が吹く秋の野は、その露が散って、糸で貫いていない玉が散りこぼれるようです。

露は命に例えられたりしますが、風は何を例えているのでしょうか。吹きつける風の強さは誓いも何もかも 散らせてしまうのでしょうか。

朝康は27康秀の息子です。古今集に1首、後撰集に2首残すだけですが、宇多天皇の代の「是定親王家歌合」「寛平御時后宮歌合」(889)などで歌を詠んでいるので、 官位は低かったが歌人として認められていたようです。
=上にもどる=
右近
百38(秀39)

忘らるる
身をば思はず
ちかひてし
人の命の
惜しくもあるかな


  
右近
秀39(百38)

忘らるる
身をば思はず
ちかひてし
人の命の
惜しくもあるかな
★右近 (910?〜966?) (拾遺集 恋四870)
☆忘れられる私のことはさておいて、神に誓ったあなたの命がなくなるのではと惜しまれてなりません。

右近衛少将藤原季縄(?〜919)の娘。醍醐天皇中宮隠子(885-954)に仕えた。村上朝の応和二年(962)、康保三年(966)などの歌合に出詠。 100定家は、「大和物語」にある300首近くある歌の中からこの歌1首だけを取り上げています。

39右近と40敦忠らしい人との逸話(84段)が、父・時平の菅原道真排斥事件による敦忠の短命と織り合わされていきますが、 実際は誰に対しての歌なのか分かっていません。

37番目の歌は「後撰集」(恋一)にある初々しい恋の始まりの歌です。忍びきれない男の思ひにあふれた歌ですが、 やがて恋も終末期の「拾遺集」(恋四)になると裏切った人の命を祈られるまでになってしまうのですね。

ちなみに次の40敦忠の室は37参議等の女(助信母)です。
=上にもどる=
参議等
百39(秀37)

浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
         
               
 T.12  = 参議・中納言 (百ト一首での位) =
# 初出勅撰集名 勅撰集での名 百人秀歌と百ト一首での名  特記
1 古今集 小野篁朝臣 秀7参議篁11 新古今集より参議の表記
2 後撰集 源ひとしの朝臣 秀37参議等39 後撰集にのみ数首残している
3 後拾遺集 大江匡房朝臣 秀72権中納言匡房73 百ト一首のみ権中納言匡房と表記
4 千載集 藤原定家 秀100権中納言定家97 71歳(1232)権中納言、新勅撰集は権中納言と表記
5 新古今集 藤原雅経 秀97参議雅経94 亡くなる1年前(1220年)に参議となる
 

官位昇進への執着が強く53歳で参議になった定家にとっては、他の歌人の官位にも留意したのではないかと思い、最終官位が参議と中納言を持つ歌人を抜き出してみました。

1:7参議篁(小野篁)(802-852)が参議になったのは承和14年(847年)、没する5年前です。「古今集」に6首残しているが、 小野篁朝臣と記されている。

2:「後撰集」に4首のみ残こしている37源ひとしの朝臣も、この集に入首しなければ参議になった人として知られることは無かった。

「百ト一首」に込めた定家の生涯と共にということですね。定家撰の「八代集秀逸」では、道助法親王(実は後鳥羽院命)の仰せで天福二年(1234)9月に進献したものだが、 古今集から撰んだからでしょうか、源等朝臣と記している。

3:72匡房は、初出の「後拾遺集」での朝臣から「金葉集」・「詞花集」では大蔵卿になり、「千載集」・「新古今集」・「新勅撰集」では前中納言になっている。 「百人秀歌」も前中納言ですが「百ト一首」では権中納言です。ところが為家撰の「続後撰集」や京極為兼選の「玉葉集」でも前中納言となっているので、 どうも「百ト一首」だけ権中納言となっている。

4:100定家自身も初出の「千載集」では藤原定家、「新古今集」では定家朝臣と表記され、「続後撰集」以後は前中納言定家と記されているので、 この二つの歌集と「新勅撰集」にのみ権中納言定家が存在していることになる。

5:97参議雅経(藤原雅経)(1170-1221)が参議になったのは承久2年(1220年)。没する1年前だ。「新古今集」が初出で藤原雅経となっている。

定家は自分自身と同様に歌人たちを現役のままで残したかったが色紙和歌には歌人名を記していない。 二つの歌集を繰っては束ねて錦のように織りなし、歌人たちの歴史を鑑みながら和歌に自分史を託して、 満天の星々に歌人たちを置いて未来永劫輝かせたのだ。

二つの歌集は決して平安時代の貴族たちの輪廻でも棺でもなく、定家没後777年の現在(2018年)においてあらゆる形で私たちと共にあるのです。
 =上にもどる=
  
  
中納言敦忠
秀40(百43)

逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔はものも
思はざりけり
★中納言敦忠 (906〜943) (拾遺集 恋二710)
☆一度は逢ったものの、それが途絶えて後の苦しみや悲しみに比べると、それまでの事は物思いをしなかったも同然ですよ。

左大臣時平の三男。母は、在原棟簗の女とも言われているので、それが正しければ10業平のひ孫になる。時平の子として、 23菅原道真の祟りによって短命を予期していたが、実際38歳で亡くなった。

二つの歌を合わせると誰にも分からないように忍んでいた恋も、とうとう人がたずねるくらい顔に現れるようになってしまったが、 出逢ったあとの逢わなくなってしまった悲しみや苦しみは、忍んでいただけの辛さなどどうってことも無いくらい大きいものだったということでしょうか。
=上にもどる=
平兼盛
百40(秀41)

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで


  
平兼盛
秀41(百40)

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで
★平兼盛 (910?〜990?) (拾遺集 恋一622)
☆心の内に忍んでいた恋も、「どうかしたんですか」と人がたずねるほどに顔色にでてしまったようです。

兼盛は18光孝天皇の玄孫。篤行王の男。天暦四年(950)に臣籍降下して、兼盛王から平氏になった。どうして源氏ではないのかな?

まだ思い始めたばかりなのに既に噂になってます。誰にも言ってないのにどうして? 自分では秘していたつもりでも人に問われるくらい顔色に出てしまっていたからです。顔は口ほどにものをいうということですね。

これが後世に色々な伝説を残した天暦御時(村上天皇)の内裏歌合での兼盛と忠見の2首です。
=上にもどる=
壬生忠見
百41(秀42)

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか


 

 T.13  = 天徳内裏歌合(てんとく だいり うたあわせ) =

村上天皇の治世(天暦御時)の天徳四年三月三十日(960/4/28)、十二題二十番の歌合。判者は左大臣藤原実頼、その補佐に大納言源高明。 後世の範と仰がれた晴儀の内裏歌合が披講された。

20番目に詠まれた41と42の歌が後世の語り草となる名勝負となった。 勝負が決しがたく、判者の実頼は天皇の御気色を伺ったところ、ひそかに兼盛の歌「しの...」を口ずさまれたので勝ちとした。 兼盛はこの歌が勝ったことを聞いて喜び勇んで他の自分の勝負には執着せず退出してしまったらしい。

負けた42忠見は、食事ものどを通らず没したというが、後々の歌が残っているので誇張された逸話だが、それくらいの名勝負だったということですね。

実際の歌合では、42が先に詠まれたが、100定家は「百人秀歌と百ト一首」ともに41を先にしている。<定家略年譜>の自分史においてその必要性があったということか。 5人(5X1)がこの集に入っており、歌は3首撰ばれている。

伝本により45清原元輔の名が有ったり無かったりしているが、10世紀の代表歌人が並ぶ中に45元輔が撰ばれていないのは不自然と思う。

40番までの内、「天徳内裏歌合」開催時に存命していたと思われるのは39右近だけです。40敦忠も943年に亡くなっています。 41番からは「天徳内裏歌合」参加者に始まり、「後撰集」編者と関係者が並び、48大中臣能宣をもって一つの時代が終わります。 「大和物語」も46重之で終わってますね。

 
歌人名 出典 和歌
1 41平兼盛 拾遺集  しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
2 42壬生忠見 拾遺集  恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
3 44藤原朝忠 拾遺集 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
4 45清原元輔 後拾遺集にあるが、伝本によって兼盛、元真、元輔とあり特定できない。
5 48大中臣能宣
 
※「拾遺和歌集」校注者 小町谷照彦 新 日本古典文学大系7 岩波書店 1990年第1刷
※「後拾遺和歌集」校注者 久保田淳 平田善信 新 日本古典文学大系 岩波書店 1994年第1刷 
※「陰陽師7」岡野玲子 原作 夢枕 獏 白泉社 平成12年第4刷 
※「天徳内裏歌合」「国史大辞典」by ジャパンナレッジ

 =上にもどる=

  
壬生忠見
秀42(百41)

恋すてふ
わが名はまだき
立ちにけり
人知れずこそ
思ひそめしか
★壬生忠見 (910?〜980?) (拾遺集 恋一621)
☆恋をしているという私のことがもう既に噂になっています。誰にも知られず思ひ始めたばかりというのに。

24壬生忠岑男。官位は低かったが歌人としては有名であった。三十六歌仙の一人。

恋の始まりと究極の悲しき終焉の歌が合わさっています。

=上にもどる=
清原元輔
百42(秀45)

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは


  
謙徳公
秀43(百45)

あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな 
★謙徳公(藤原伊尹これただ、これまさ) (924〜972) (拾遺集 恋五950)
☆かわいそうにと、同情してくれそうな人も思い浮かばず、我が身はこのまま虚しく死んでしまうのでしょう。

34貞心公の孫。九条右大臣師輔男。摂政太政大臣正二位。和歌所の別当として梨壺の5人を監督する立場になり、 「後撰集」の編集に関与する。謙徳公の歌は、「後撰集」に2首、「拾遺集」に6首入首した後、続く「後拾遺集」、「金葉集」、「詞花集」、「千載集」に無く、 「新古今集」に10首、「新勅撰集」に9首撰ばれており定家好みなのかもしれません。

この歌は、身分の低い架空の役人に仮託し、女性との恋愛贈答を歌物語的に構成した「一条摂政御集」にある歌です。

伊尹も敦忠も思いのほかの早逝であったので、両家ともその後は中央政権から離れていった。 伊尹男の49義孝も21歳で亡くなり、義孝男の行成(972-1027)は幼児の時に祖父、父を亡くしたが、 後に一条朝四納言の一人となり、三蹟の一人という能書家になった。
=上にもどる=
権中納言敦忠
百43(秀40)

逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔はものを
思はざりけり


  
中納言朝忠
秀百44

逢ふことの
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし
★中納言朝忠(910〜966) (拾遺集恋一678) 
☆もし逢うことがなかったら、相手の冷たさや自分の辛さを嘆いたりすることもないでしょうに。

35三条右大臣定方男。歌人として有名であり、「天徳内裏歌合」など歌合に列席している。 元々、この歌は「未逢恋」(未だ逢わざる恋)として詠んだものなのですが、定家は、「逢未逢恋」(逢って逢わざる恋)という解釈にしているようです。

もし逢うことが全くなかったらと仮定することが、過去において相手の冷たさや自分の辛さを散々味わってきた証なんでしょうね。

<定家略年譜>の自分史においてXX 後鳥羽院と不協和音を奏で始めたので、 秀百不動番号にしたと思っていましたが、それだけでなく64紫式部本人や次に展開する「源氏物語」の登場人物の要になる人でした。
=上にもどる=
中納言朝忠
秀百44

逢ふことの
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし


 
 T.14  = 源氏物語のモデル =

「いづれの御時にか」より始まる「源氏物語」のあまたさぶらう女御や更衣の一人桐壺の更衣って誰。 繰り返される歴史の中で、モデルになるべき候補者は様々で、思い描く人それぞれに思い描くモデルはいるはずです。

宮道列子が良門流の藤原高藤のシンデレラとなり、誕生したお姫様、胤子は臣籍降下していた源定省に嫁いだ。 臣籍降下した者は帝位につけないはずなのに、源定省は親王宣下をして皇太子となり宇多天皇になったのです。

お姫様の胤子が生んだ第一皇子が醍醐天皇です。しかし「延喜の治」と呼ばれた賢帝はこの物語に登場しません。 醍醐天皇の皇子で「天暦の治」と呼ばれた村上天皇も然りです。しかし、朱雀天皇、冷泉天皇は実名で登場します。

44朝忠は、宇多天皇関係者(源氏物語の登場人物たち)と64紫式部の良門流の家系を繋ぐ要でした。

文徳天皇の代に身分の低い紀名虎の娘である静子(更衣)がいました。天皇の寵妃であり、
天皇も第一皇子の惟喬親王を特に愛しておりました。
しかし、後ろ盾がなく次の天皇に望むも諦めざるを得ませんでした。

静子は三条町(さんじょうのまち)と呼ばれ「古今集」に1首残してます。
「古今集」 (雑上 930)
★思ひせく 心のうちの 滝なれや 落つとは見れど 音のきこえぬ
・思いを堰き止めている心の中の滝なのでしょうか、落ちてはいるのですが音が聞こえないのは。
屏風絵を題に詠まれた歌としては最も古いものです。
       
  家系図の記号:   ||、==子孫、 +++++婚姻関係、  ・・・・・兄弟、
滋野縄子 +++++ 仁明天皇 ++++ 藤原沢子
|| ||
第五皇子
本康親王
第四皇子
人康親王
|| ||
廉子女王 ++++ 時平 ←←母・人康親王女
←←父・藤原基経
||
||
||
第三皇子
(18)
光孝天皇 
←←母・藤原沢子
←←父・仁明天皇
|| ||
|| ||
(秀百20)
元良親王
+++ 京極御息所
(褒子)
++++








+++温子 ←母・操子女王(嵯峨天皇孫)
←父・藤原基経
良門
||
(秀百32)
(春道列樹)
宮道列子
+++++ 高藤 ・・・・・・・・ 利基
++++ (秀百19)
伊勢
++++ || ||

+===
=中務 ++++ 胤子 ・・・・・ (35)
定方
(36)
兼輔★

|| || ||

++++
敦慶親王 ・・★醍醐天皇・・ 敦実親王 || ||
|| (秀百44)
朝忠・・・
・朝頼・ ・・定方女 ++++ 雅正
兼輔★
次男
清正女
++++ ☆源守清 醍醐天皇
第七皇子
有明親王
|| || || ||
|| 源雅信
(母・時平女)
++++++ 朝忠女
穆子
為輔 為頼 ・・・・・ 為時
源高雅 || || ||
||
||
明子
父・源高明
+++ 藤原道長 +++ 倫子 宜孝 +++++ (64)
紫式部
|| || || ||
懿子
よしこ
+++++ 長家
1005-1064
一条中宮
彰子
988〜1074
(62)
大弐三位
999?-1082?
||
忠家
1033-1091
★醍醐天皇
885-930
||
第三皇子
代明親王
904-937
第四皇子
重明親王
906-954
第七皇子
有明親王
910-961
第十二皇子
源高明
914-982
第十四皇子
朱雀天皇
923-952
第十六皇子
村上天皇
926-967
|| || ||
徽子女王
(斎宮女御)
929-985
☆源守清 ||
||
||
|| ||
規子内親王
村上天皇
第四皇女
(斎宮)
949-986
第二皇子
冷泉天皇
950〜1011
第七皇子
円融天皇
959-991
選子内親王
第十皇女
(大斎院)
964〜1035
第九皇子
具平親王
964〜1009
 
光源氏のモデルとなった人は、非常に好色であった20元良親王、 琴、弓に秀でた好色無双の美人と称された敦慶親王、音曲に優れた敦実親王など余多いると思うが、 源氏に臣籍降下したのち親王に戻り天皇となった宇多天皇もモデルの一人だったでしょう。しかし実在の朱雀天皇、冷泉天皇に続いて64紫式部の身近な存在として具平親王がいました。

藤壺の女御は19伊勢(宇多天皇と、その親王、敦慶親王と結ばれた)、明石の君は宮道列子、明石の姫君は胤子。彼女たちは、 受領の娘であった64たちのあこがれのヒロインだったかもしれません。 また64紫式部の母は為信娘<T.10菅原家と藤原長良・良門流>ですが、祖母である為信妻は宮道忠用の娘です。 64紫式部にとっても宮道家は身近な存在でした。

※「紫式部伝: その生涯と『源氏物語』 源氏物語千年紀記念」 門田文衛 法蔵館 2007


 =上にもどる=

  
清原元輔
秀45(百42)

契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波越さじとは
★清原元輔 (908〜990) (後拾遺集 恋四770)
☆約束しただろう。何度も袖を濡らしながら、あの末の松山が波を越さないように、私たちの仲も末長く変わるまいと思っていたのに。

元輔は、専門歌人として、高官の家に出入りし、多くの歌を詠じている。43番目で述べたように謙徳公は和歌所の別当。 元輔たち梨壺の五人は、「後撰集」(村上天皇御時、951年)の編纂と共に万葉集に訓点をつけた。

陽気な人柄で晩年に至るまで歌壇で活躍し,口にまかせて詠む機知に富んだ速詠を得意とした。 そうしたところが好まれたのか藤原実頼,藤原頼忠,藤原師輔,源高明などの貴顕の邸宅に出入りしている。 詠歌は個人的なものよりも屏風歌合といった召し歌(貴顕の注文に応じて創作する和歌)が多い。

986年正月に79歳の高齢で肥後守に任ぜられた。990年に現地で病により没した。

この歌は、その詞書「心かはりて侍りける女に人にかはりて」にて代作したと分かる。謙徳公の歌は、「一条摂政御集」にあり、 物語の中ではあるが、女から捨てられた男の孤独な弱い心を詠んでいるので一応どちらも男の失恋の歌。

これから円融、花山天皇時代の藤原家の権力争いに皆が揺れ動いていきます。
=上にもどる=
謙徳公
百45(秀43)

あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな


                     
  T.15 = 梨壺の五人 =
梨壺の五人   親子関係 
1 源順☆
2 紀時文 1  28紀貫之の男 
3 坂上望城 2  29坂上是則の男 
4 45清原元輔 3  33清原深養父の孫
4  60清少納言の父
5 48大中臣能宣 5  65伊勢大輔の祖父
 
☆源順(嵯峨源氏 911-983)は、漢詩や和歌に優れ、 梨壺の五人の一人として「万葉集」の訓点作業と「後撰集」の撰集作業に参加した。 天徳四年(960)の内裏歌合<T.15=天徳内裏歌合=)>の参加メンバーの一人。

冬によく見られるプレアデス星団にあるスバルついて言及した日本での最古の記録は、 平安時代に源順(911-983)が醍醐天皇皇女勤子内親王(904-938)の命で作成した百科事典「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)だと考えられている。 この中で、昴星の和名は須波流と記されている。

源高明のサロンに出入りしていた関係か安和二年(969)の「安和の変」<T.17=一条朝前後>以後は散位生活を送る。 特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、 977年の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している。
=上にもどる=
 
  
源重之
秀46(百48)

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな
★源重之 (908〜990) (詞花集 恋上211)
☆風が激しいので、岩を打つ波が、岩は平気で、波のような自分だけが心も千々に砕けて物思いするこの頃です。

清和源氏。冷泉天皇の東宮時代の帯刀先生(東宮警護の士の長)。東宮時代(950-967)(天暦、天徳、応和、康保)年間に百首を奉った中の1首。 この百首の歌は百首歌では最古のものと言われている。曾禰好忠らと親交があり、50実方の陸奥赴任には随った。50実方の没後も留まり、そこで没した。

父源兼信は陸奥国に住みついたので叔父の兼忠の養子になった。その兼忠の娘が兼家の妻となり一女をもうける。その子が後に56道綱母の養女となり、 「蜻蛉日記」にある兼家と娘の対面の場となる。

64紫式部は、このことを明石の君が娘を紫の上に養女に出し、その後、逆の立場で対面の場となる話に取り入れたのだろうか。

岩が相手の冷淡さ、頑なに閉ざされた心を喩えていて、自分の身の拙さを思い知らされていますし、 漂うばかりの行方が分からない恋の道と、どちらも波に翻弄される暗澹とした思いに包まれています。
=上にもどる=
曽祢好忠
百46(秀47)

由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
行く方も知らぬ
恋の道かな


  
曽祢好忠
秀47(百46)

由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
行く方も知らぬ
恋の道かな
★曽祢好忠 (923?〜1003?) (新古今集 恋一1071)
☆由良の瀬戸を漕いでゆく船頭が、かいを失って行方も分からず漂うように、どこへ向かうのか、どのようになるかも分からない私の恋の道ですよ。

花山天皇の代の歌人。頑なな性格だったようで、寛和元年(985年)、円融院の子の日の御幸にて45清原元輔・46源重之・48大中臣能宣・50平兼盛・紀時文たちが呼ばれていたが、好忠は呼ばれていないのに参上して追い出された話が残っている。

「好忠百首」は、重之の百首歌と同様に初期の百首歌の一つです。「曾丹集」が残っており、先ほどの「好忠百首」や 1日1首の割で360首を配列した「毎月集」などがあります。「詞花集」や「新古今集」に多く入首しているので歌風は後に認められたようです。

自分の明日の行方も分からない状態でも、滅びゆく環境の中にあっても、季節は迷うことなく確実にめぐってきます。
=上にもどる=
恵慶法師
百47(秀52)

八重葎
茂れる宿の
寂しきに
人こそ見えね
秋は来にけり


  
大中臣能宣朝臣
秀48(百49)

みかきもり
衛士のたく火の
夜は燃え
昼は消えつつ
ものをこそ思へ
★大中臣能宣朝臣 (921〜991) (詞花集 恋上225)
☆恋に悩む私は、御垣守の衛士がたく火が夜は燃えて、昼は消えているのと同じように、昼間は消え入るように毎日物思いに沈んでいます

大中臣氏は代々祭祀を司る家系です。父の頼基と同じく「三十六人撰」の一人で、輔親・65伊勢大輔・康資王母・安芸君へと連なる六代相伝の歌人です。

この百余首ある歌集も半分近くになり「後撰集」の編纂に関与した歌人たちや専門歌人たちの終焉を迎えようとしています。
=上にもどる=
源重之
百48(秀46)

風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけてものを
思ふころかな

  
藤原義孝
秀49(百50)

君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひぬるかな
★藤原義孝 (954〜974) (後拾遺集 恋二669)
☆あなたと逢うことが出来れば死んでも惜しくないと思った私ですが、あなたと逢った後、今では末永く逢いたい思うようになりました。

義孝は、43謙徳公・伊尹男。謙徳公が蔵人頭をめぐって中納言朝成(44朝忠弟)と争い、敗北した朝成は、「この族永く絶たなむ。...」と言い残して悪霊になった。 その為義孝は長生きしないだろうと思っていたらしい。実際は二人とも蔵人頭になっているし、朝成は謙徳公より長生きした。

謙徳公自身は、摂政太政大臣正二位、円融天皇の叔父、花山天皇の祖父として最高の地位にいたが48歳と意外な短命だった。

義孝男に三蹟の一人と言われた行成がいる。世尊寺家として書道を世業として続いていく。

義孝には一つ年上の兄に挙賢(たかかた)がおり、挙賢を前少将、義孝を後少将と呼ばれた。974年、疱瘡の流行りにより、兄の挙賢が朝に亡くなり、夕方に義孝が亡くなった。21歳の若さでした。

短命であったがゆえに余計にこの後朝の歌の余剰さを深めています。御垣守の衛士のような力強い生命の炎を燃やしていてたらなあと感じさせる薄命の貴公子でした。

この49番目と次の50番目の中で、義孝は御垣守の衛士の炊く火の勢いと、伊吹山のさしも草のような胸に余りある燃ゆる思ひの歌に合わされています。 義孝は、大変信心深い人で、亡くなる時にまだ法華経を読み終えていないから火葬にしないでと頼んだ。しかし、不注意で火葬してしまったので、母の夢に現れて、
「後拾遺集」 (哀傷 598)
しかばかり 契りしものを わたり川 帰るほどには 忘るべしやは 
・あれほど固くすぐには納棺しないでほしいと約束したのに、私が三途の川から引き返すそれほどの間にもう忘れてしまってよいのでしょうか。
=上にもどる=
大中臣能宣朝臣
百49(秀48)

みかきもり
衛士のたく火の
夜は燃え
昼は消えつつ
ものをこそ思へ


  
藤原実方朝臣
秀50(百51)

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを
★藤原実方朝臣 (958?〜998)  (後拾遺集 恋一612)
☆このようにあなたに恋していると言えませんから、伊吹山のさしも草のように燃える私の思ひも知らないでしょう。

円融天皇御時、花山天皇御時に活躍したが、49藤原義孝男・行成と殿上で争って、一条天皇から「歌枕をみてまいれ」と言われて左遷されたと言う説話があるが、 行成の日記「権紀」によると盛大な見送りをされたと記してある。40歳位で任地国の陸奥で没した。

母は源雅信女。父は定時ですが早世したので叔父の済時(941-995)の養子になります。祖父母は藤原師尹(920-969)と35定方の女です。

済時女のせい(女偏に城)子(せいし)(972〜1025)は、三条天皇の東宮時代に入内し、敦明親王(小一条院)や当子内親王ら四男二女をもうけた寵妃でした。

しかし、1012年、道長は娘の妍子を送り込み中宮としました。

済時亡き後は後ろ盾も弱くなり、兄弟の為任や通任が道長と争うも太刀打ちできず、三条院の崩御後(1017年)、 敦明親王(小一条院)は東宮を辞退した。

せい子は皇后でありながらも、敦道親王妃であった妹を61和泉式部が邸に召し抱えられた後に引き取ったり、 娘の当子内親王に先立たれる悲劇もあり恵まれた生涯ではありませんでした。
=上にもどる=
藤原義孝
百50(秀49)

君がため
惜しからざりし
命さへ
長くもがなと
思ひけるかな


 
 T.16  = 世尊寺家と定家 =

49藤原義孝男の行成は生まれるとすぐに祖父43伊尹の養子になりますが、半年後に死に別れ、 さらに2年後に父49義孝にも流行り病で亡くします。その後は母方の祖父の源保光に育てられ、 一条天皇の蔵人頭として活躍し四納言(源俊賢・59藤原公任・藤原斉信・藤原行成)の一人として称えられます。また三蹟の一人として名をなし世尊寺家の祖となります。

  家系図の記号:   ||、==子孫、 +++++婚姻関係、  ・・・・・兄弟、
 
宇多天皇
(867-931)
+++ 胤子 ・・・・・・ 35
三条右大臣
定方(873-932)
|| ||
||
||
||
||
醍醐天皇
(885-930)
||
第三皇子
代明親王
よしあきら
(904-937)
+++ 定方女 ・・・・・・・・ 44朝忠
(910-967)
・・・ 定方女 +++ 藤原雅正
(?-961)
|| ||
||
||
源保光
(924-995)
・・・ 恵子女王
(925-992)
・・・ 荘子女王
(930〜1008)
・・・ 厳子女王
・・・ 源延光
(927〜976)
||
||
+++
43藤原伊尹
(924-972)
+++
村上天皇
(926-967)
+++
藤原頼忠
(924-989)
||
||
藤原為時
(949?-1029?)
源保光女
+++
|| || || 源延光女
+++
||
||
||
||
||
||
||
49藤原義孝
(954-974)
後少将
・・・ 藤原挙賢
(953-974)
前少将
具平親王
(964〜1009)
59
藤原公任
(966〜1041)
藤原済時
(941-995)
||
||
藤原行成(972〜1027)
世尊寺家の祖 三蹟の一人
+++ 源泰清女 ←== 源泰清
(936-999)
←== 醍醐天皇第七皇子
有明親王ありあきら
(910-961)
64
紫式部
(975?-1031?)
|| ||
行経ゆきつね
(1012-1050)
==⇒ 伊房これふさ
(1030-1096)
+++++++++ 高階成章女
(生母不明)
←== 高階成章 62
大弐三位
|| 白河朝にて前三房と称される
藤原伊房(世尊寺家)
藤原為房(勸修寺流)
72大江匡房(大江家)
||
定実さだざね
(1063-1131)
高階為家
||
定信さだのぶ
(1088-1156)
||
伊行これゆき
(1139?-1175?)
現存する日本最古の書論書「夜鶴庭訓抄」(やかくていきんしょう)を娘の建礼門院右京大夫の為に書き残す。
「源氏物語」にも関心を示し、注釈書である「源氏釈」を著した。
定家はこれを元として「奥入り」を著している。
||
伊経これつね
(?-1227)
・・・ 建礼門院
右京大夫
(1155?-1234?)
母は中院右大臣家夕霧、「新勅撰集」のみに一首選。
夕霧と87俊成との関係から後見されていたかもしれない。
定家の異父兄・隆信(1142-1205)と関係があった時期がある。
「新勅撰集」に二首選。
||
行能ゆきよし
(1179-1255?)
1229年、95九条良経男・道家の信任を得、道家娘ソン子の入内の際に用いる屏風の色紙形を作成する。
1234年、「新勅撰集」の清書をする。自身の歌も八首選。
1236年、3代目藤原伊房が失脚して以来、約150年ぶりの世尊寺家からの従三位叙位となった。
 
※「新勅撰和歌集」 中川博夫 和歌文学大系6 明治書院 平成十七年発行
※「建礼門院右京大夫集」 久松潜一・久保田淳校注 岩波文庫 1997第15刷 
=上にもどる=


  
藤原道信朝臣
秀51(百52)

明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なを恨めしき
朝ぼらけかな
★藤原道信朝臣 (972〜994) (後拾遺集 恋二672)
☆夜が明ければ、また夜が来て逢えると分かっていてもそれでも恨めしい別れの夜明け方です。

道信は、師輔男の太政大臣為光の男。母は43謙徳公女。50実方や59公任と特に交流があり、「いみじく和歌の上手」と言われたが、当時の流行り病によって 23歳の若さで亡くなった。

異母兄の一人に、枕草子に度々出てくる一条朝の四納言と称された斉信(たたのぶ)がいる。 斉信は公任、行成、源俊賢と共に藤原道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支えた。

花山天皇の女御に婉子女王がおり、父は為平親王(村上天皇皇子)、母は源高明(醍醐天皇皇子)女です。花山天皇が出家したので、16歳で宮中を退出しました。一条天皇の蔵人頭であり、 参議となった15歳ほど年上の実資と恋争いをしたが所詮勝ち目はありませんでした。

「詞花集」 (恋上222)
嬉しきは 如何ばかりかは 思ふらん 憂きは身にしむ ものにぞありける  
・恋を得た人はどんなにか嬉しいかと思います。それに引き換えて私の辛さは身に沁みることです。

その時の心情は実方の歌そのものでしたでしょう。道信が亡くなって4年後に婉子女王も27歳で夭折しました。
=上にもどる=
藤原実方朝臣
百51(秀50)

かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
燃ゆる思ひを


  
恵慶法師
秀52(百47)

八重むぐら
茂れる宿の
寂しきに
人こそ見えね
秋は来にけり
★恵慶法師 (950?〜1000?)  (拾遺集 秋140)
☆むぐらが幾重にも生い茂るさびしいこの家に人は誰も訪ねてきませんが秋だけはやはりやって来ました。

恵慶法師は、花山天皇の頃の人です。41兼盛、46重之や「後撰集」編纂時に関わった人たちと親交があり、この歌は17河原左大臣・源融邸宅が100年後くらいに、荒れ果てているやどに秋来たるという心を詠んだものです。 源融の子孫にあたる安法法師が住んでおり、10世紀末の中下流歌人たちと風流に交わっていたとのことです。河原院は、のちに「源氏物語」の六条院の舞台となりました。

道信は21歳の時に父為光を亡くし、1年喪に服して、喪服をぬぐときに詠んだ歌。
「拾遺集」 (哀傷 1293) 
限りあれば けふぬぎすてつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり 
・喪の期間には期限があるので今日脱ぎ捨てました。でも限りがないのは、亡き父を悲しむ涙でした。
=上にもどる=
藤原道信朝臣
百52(秀51)

明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なを恨めしき
朝ぼらけかな


   
 T.17  = 一条朝前後 = 

貞観八年(866)の「応天門の変」、昌泰四年(901)の「昌泰の変」などの<T.5 他氏排斥事件>の後、 藤原家は臣籍降下をした源氏を排斥したり、兄弟同士のなかで天皇の外戚となるための争いを続けていきます。
事件、変 略伝
969年
安和二年
安和の変 藤原氏による他氏排斥事件。謀反の密告により醍醐天皇の第十皇子である左大臣源高明が失脚させられた。

村上天皇の崩御後に冷泉天皇が即位した。まだ幼く子供がいないので、皇太子弟として、高明娘を妻とする弟の為平親王と、 藤原兼家女を妻とするさらに若い弟の守平親王をめぐっての両家の争い。数年後に守平親王が円融天皇となる。

高明には、師輔3女との間に源俊賢(一条朝四納言の一人)。師輔5女・愛宮との間に源経房と明子がいた。経房は「枕草子」に左中将として登場し、 「枕草子」を世に広めた人として伝わる。また、娘の明子は叔父の盛明親王の養女となり その後、東三条院(円融天皇女御・一条天皇母)の庇護を受けた。道長室となり、子の一人、長家が御子左家の祖となる。

愛宮は変後に離別し、出家して桃園に住んだことが「蜻蛉日記」に記されている。
986年
寛和二年
寛和の変 花山天皇の退位と出家に伴う政変。 円融天皇皇子・東宮懐仁親王(一条天皇)を即位させ、外祖父になりたい藤原兼家が企てたこと。

兼家の叔父である実頼男の頼忠は、円融、花山両天皇の関白だったが、天皇の外戚になることが出来ず失脚した。 これにより息子の59公任の昇進は滞るようになった。

また、この事件の為に、花山天皇の親王時代に学問を教え、 当時式部丞になっていた64紫式部父・藤原為時は、失職し以後10年余り散位となった。為時兄の為頼も花山朝に順調に昇進したが変後は停滞し、 長徳2年(996)、太皇太后宮大進に任ぜられ太皇太后・昌子内親王に仕えた。

昌子内親王(950-1000)は、朱雀天皇第一皇女で冷泉天皇中宮。摂関家出身の女御に遠慮して里邸で過ごした。61和泉式部の母が傍に仕え、 夫の橘道貞邸にて崩御。
996年
長徳二年
長徳の変 中関白家の内大臣、藤原伊周と弟の隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件。

伊周の誤解により、花山法王を矢で射ってしまった。 また、東三条院(一条天皇母、詮子)を呪詛したこと、密かに太元師法を修したことなどにより、道長は、伊周、隆家を流罪にして失脚させた。 その後、母の55儀同三司母、妹の53一条院宮定子は、不遇の中で亡くなった。
1011年
寛弘八年
敦康親王 敦康親王は一条天皇の第一皇子でありながら母の53定子、叔父の伊周の死後、後ろ盾がなかった。 天皇は譲位後に敦康親王の東宮を望んだが、藤原行成は文徳天皇の惟喬親王の例を挙げて止めさせた。

54三条天皇即位と共に東宮は、 道長女の彰子出生の敦成親王(後一条天皇)となった。行成は敦康親王(999〜1019)が亡くなるまで家司として仕えた。

敦康親王には具平親王女との間にゲン子女王がおり、女王は後朱雀天皇中宮となる。その長女の祐子内親王には、藤原長家(御子左家)が別当として、74祐子内親王紀伊、 75相模、菅原孝標女(更級日記)などが出仕していた。
1016年
長和五年
小一条院 54三条院(976-1011〜1016-1017)は即位後数年たって眼病を患ったり(1014)、内裏が二度にわたって消失したり不幸なことが続いた。 道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。 病状の悪化もあり、54三条院は第一皇子の敦明親王(小一条院)の東宮を条件に、 敦成親王(後一条天皇)に譲位し、翌年42歳で崩御した。

後一条天皇の即位に伴い、敦明親王(小一条院)が東宮になったが、三条院崩御後に東宮を辞退した。

64紫式部父の為時は、1014年に任期を1年残して越後守を辞退し帰京。1016年に出家した。

源高明失脚後、兼家は従兄、兄弟と争い、四男の道長は、兄弟の思わぬ病死の後、最後に勝ち残りました。 34貞信公(忠平880-949)以降、九条流は、師輔、兼家、道長、頼通、師実、師通、忠実と紆余曲折は有りながらもおおよそ直系の摂関家は続きますが、 79法性寺入道前関白太政大臣(忠通1097-1164)までの200年間の摂関家からの歌が一首もありません。 定家は、忠平や忠通を敗者とみなしていたのでしょうか。
=上にもどる=



一条院皇后宮
秀53(百xx)

よもすがら
ちぎりしことを
忘れずは
恋ひむ涙の
色ぞゆかしき
★一条院皇后宮 (977〜1000)  (後拾遺集 哀傷536)
☆夜通し言い交したことをお忘れでないなら、恋しく思ってお流しになる涙は、どの様な色になっているのか知りたいものです。

一条天皇の皇后定子。第一皇子・敦康親王の生母。母は55儀同三司母(高階成忠女・高内侍)。父は藤原道長兄・道隆。 「長徳の変」の伊周と隆家は同母兄弟。

この歌は「百人秀歌」の方にだけある4首の内の最初の歌です。
定子の母は高階家出身であり藤原氏に囲まれた中で異端の存在でした。 父、関白道隆の威光を持ってしても当時藤原家は兄弟同士で覇権争いの真っ最中です。 定子は藤原家に囲まれて内裏の中で閉塞感を感じていたのではないでしょうか。

そんな定子が救いを求めて、世間で評判になっている漢文の素養のある清少納言を身分違いにも拘らず近くに呼び寄せたのです。 二人とも母は藤原家の出ではないので親近感もあったでしょう。 清少納言は期待に応えて「枕草子」を書きあげました。 そこには嘆きつつ一人ぬる夜の定子のさみしさは書かれてません。

この歌は定子亡き後に見つけられたもので他に2首あります。
(後拾遺集 哀傷537)
知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くとも 急ぎたつかな
 ・だれも知る人のない死出の旅路に、今はもうこれまでと心細い気持ちのまま急ぎ旅立つことです。

(後拾遺集 異本歌)
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ
 ・今となっては私は火葬に付されるような高貴な身分の者ではないと思ってるので、 煙にも雲にもなることなく草木に埋もれてしまうけれども、草の上におりた露を私だと思って見てくださいね。 =上にもどる=
右大将道綱母
百53(秀56)

嘆きつつ
ひとり寝る夜の
明くる間は
いかに久しき
ものとかは知る

  
三条院
秀54(百68)

心にも
あらで憂き世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
★三条院 (976〜1011-1016〜1017) (後拾遺集 雑一860)
☆心ならずもこの世に生きながらえているなら、その時、恋しく思い出されると思う今夜の月です。

冷泉天皇皇子。母は藤原兼家女・超子。冷泉天皇は18歳で即位し2年後退位。冷泉弟の円融天皇(11歳)が即位し、 15年後に三条院異母兄の花山天皇(16歳 母45謙徳公女懐子)が即位したが、2年後に「寛和の変」により出家して退位した。

円融天皇皇子の7歳の一条天皇(980〜986-1011)が即位する。 一条天皇(25年在位)崩御により即位するが、すでに36歳であった。 在位期間の5年間に二度にわたり内裏が火災にあい、また眼病を患い失明した。道長の軋轢に屈して、 第一皇子の敦明親王を東宮にすることを頼みにして譲位し翌年崩御。 <T.17 =一条朝前後=・小一条院> 

三条院は道長と約束を交わしたが、その心境は、この儀同三司母の歌そのものだったでしょうね。
=上にもどる=
儀同三司母
百54(秀55)

忘れじの
行く末までは
かたければ
今日をかぎりの
命ともがな


  
儀同三司母
秀55(百54)

忘れじの
行く末までは
かたければ
今日をかぎりの
命ともがな
★儀同三司母 (955?〜996) (新古今集 恋三1149)
☆私のことは何時までも忘れないよというお言葉も、形だけのものであって何時までも守られるものではないと分かっているので、 あなたがそう言われる今日が最後の命であって欲しいものです。

高階成忠女・高階貴子。中関白藤原道隆妻。通称は高内侍(こうのないし)。「新古今集」とこの集のみ儀同三司母と表記されている。 定家のなせる所以か?

995年道隆が病死すると、翌年<T.17=一条朝前後=・長徳の変>により、中関白家は没落し、その半年後に失意のうちに亡くなる。 53番,54番,55番と道長の覇権争いの犠牲となり、失意のうちに亡くなった3人が続いています。しかし60清少納言の「枕草子」と100定家の「小倉百人一首」のお陰で現代まで名前は流れ続けています。
=上にもどる=
大納言公任
百55(秀59)

滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ


 
 T.18 = 母と名がつく歌人と定家 =

この時代の女性の名前はほとんど分かっていません。父親の役職名や赴任地名などによって呼ばれてました。 そういう呼び方の中で「だれそれの母」と呼ばれる人がいます。この集では二人、55儀同三司母と次の56右大将道綱母がいますが、二つの集のどちらにも順番は違えども並んでいます。 何かを感じて系図を調べてみました。

  家系図の記号:   || 子孫、 +++++婚姻関係、  ・・・・・兄弟、
                           
56右大将道綱母 (937?-995)
「蜻蛉日記」
+++++++
藤原兼家(道隆父) (929-990)
||
55儀同三司母 (953?-996)
+++++
中関白家・藤原道隆 (953-995)
右大将道綱
(955〜1020)
+++ 源雅信女・中の君
(?-1000)
|| ||
道隆三男
伊周
(974〜1010)
・・・ 53定子
一条院皇后宮
(977〜1000)
・・・ 道隆四男
隆家
(979〜1044)
||
||
||
|| ||
隆家次兄
経輔
(1006-1081)
・・・・・・・・・・・ 隆家女 +++++ 道綱三男
兼経
(1000-1043)
+++ 弁乳母・
禎子内親王乳母
(三条院第三皇女)
(後三条天皇母)
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
||
御子左家祖
長家
(1005-1064)
兼経三男
顕綱(歌人)
(1029-1103?)
|| ||
経輔女 +++ 長家次兄
忠家
(1033-1091)
伊予の守
敦家
(1033-1090)
++++堀河天皇乳母
兼子
(1050-1133)
・・・ 長子
(1079-?)
「讃岐典侍日記」
|| ||
俊忠
(1073-1123)
++++++++++++兼子女 ・・・ 敦兼
(1079-?)
兼子は伊予三位敦兼母として、
「千載集」に一首入首
||
||
87
俊成
(1114-1204)
+++++++++美福門院加賀
(?-1193)
 美福門院加賀は定家母として、「新古今集」、
「新勅撰集」それぞれに一首入首。
|| 「無名草子」?
100
定家
(1162-1241)
・・・・・・・・・・・・・健御前
建春門院中納言
「たまきはる」
=上にもどる=


  
右大将道綱母
秀56(百53)

嘆きつつ
ひとり寝る夜の
明くる間は
いかに久しき
ものとかは知る
★右大将道綱母 (937?〜995?) (拾遺集 恋四912)
☆嘆きながらひとり寝する夜の長さが、どんなに長いか分かっていただけますでしょうか。門を開けるのが遅いと言ってますが...。

「蜻蛉日記」の作者。父倫寧は長良流高経の孫です。兼家の妻となり、夫が通ってこない嘆きをつぶやいています。晩年はこの和泉式部の歌そのものの気持ちだったでしょうね。

異母妹は菅原孝標室となり、「更級日記」の作者である孝標女を生んでいます。

「紫式部日記」の作者である64紫式部の母方の祖父為信の兄弟である為雅の室は道綱母の異母姉妹です。 為信と為雅の父、文範は長良流清経の孫です。<T.10=菅原家と藤原長良・良門流=>

異母弟に長能がおり。花山天皇に仕えて「拾遺集」編纂に関わったとされている。57能因法師が長能の門弟になり子弟制度ができた。

「新勅撰集」 (雑一 1061) 右大将道綱母
かくれぬに おひそめにける あやめ草 ふかきしたねは しる人もなし
・陰沼に生い始めた菖蒲草よ、(その)深い下根は知る人もございません。
「新勅撰集」 (雑一 1062) 東三条院
あやめぐさ ねにあらはるゝ けふこそは いつかとまちし かひもありけれ
・菖蒲草よ、根に顕れる今日こそは、五日−何時かかと待った効もあったのでした。

兼家の妻の一人であった道綱母は老後の心配から養女を迎えます。源兼忠(清和源氏)の孫女であり兼家女です。 「新勅撰集」では、一条天皇母の東三条院(詮子)に養女を頼むと言うような話に読み取れるが、実際は詮子の母である時姫とのやり取りです。 この歌の贈答時は、詮子11歳でまだ入内しておらす、養女も12,3歳でした。 では100定家はなぜこの様に状況を変えて話を作ったのでしょうか。
※「新勅撰和歌集」全釈六 神作光一、長谷川哲夫 風間書房 2006年3月31日 発行
※「蜻蛉日記の養女迎え」倉田実 新典社 2006年9月15日初刷発行 
=上にもどる=
和泉式部
百56(秀61)

あらざらむ
この世のほかの
思ひ出に
今ひとたびの
逢ふこともがな


  
能因法師
秀57(百69)

嵐吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり
★能因法師 (988〜1051?) (後拾遺集 秋下366)
☆嵐が吹き散らす三室の山のもみじ葉は、竜田川に流れ入り、そのまま川の錦のようになっています。

俗名は橘永ト。歌を藤原長能に師事した。長能は56道綱母の弟です。

この歌は、永承四年(1049年)、「内裏歌合」後冷泉天皇(1025〜1045-1068)主催にて詠まれたものです。
これに対する歌は、藤原佑家(長家三男・御子左家)が詠みました。
 散りまがふ 嵐の山の もみぢ葉は ふもとの里の 秋にざりける

能因法師の勝ちです。定家がこの歌を撰んだのは御子左家と関係するゆえだからでしょうか。
近年ではあまり評判のよくない歌ですが、当時は大変評価されたそうです。

また能因本という清少納言の「枕草子」が伝わっています。 ここで紫式部の「源氏物語」と共に、御子左家、能因法師、清少納言、紫式部と合わさっています。

※「明月記研究提要」 明月記研究会編 八木書店 2006 初版
※「百人一首を楽しくよむ」 井上宗雄 笠間書院 2005 第3刷

=上にもどる=
紫式部
百57(秀64)

めぐり逢ひて
見しやそれとも
わかぬ間に
雲隠れにし
夜半の月かな


  
良暹法師
秀58(百70)

さびしさに
宿を立ち出でて
ながむれば
いづくも同じ
秋の夕暮れ
★良暹法師 (997?〜1064?) (後拾遺集 秋上333)
☆あまりの寂しさに庵を出でて周りを眺めてみたら、周囲はどこもかしこも同じで慰めるものもなく寂しい秋の夕暮れの景色です。

大原の里に庵の寂しさから耐え切れなくなった寂寥感。風は吹いていたのでしょうか。

ここでは、孤独の中でも風が吹けば誰かが思っていてくれてますよと救いの手を差し伸べているようにも感じます。 離れ離れになっている男からの歌の返しにそよそよと笹原に風が吹いているようにあなたのことは心動かされて忘れていませんよと。 11世紀に入ってからの好対照な生き様の歌人と歌の組み合わせです。

先の能因法師とは同時代の人です。「百ト一首」でも百69と百70に二人並んでいます。 対する大弐三位は、紫式部の娘であり後冷泉天皇の乳母として天皇を支えました。
=上にもどる=
大弐三位
百58(秀62)

有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする


  
大納言公任
秀59(百55)

滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほとまりけれ
★大納言公任 (966〜1041) (拾遺集 雑上449)
☆この滝殿の滝の水は、ずいぶん前に絶えてしまっているけれど、その名声は今に伝わって鳴りわたっていることです。

「拾遺集」に「滝の糸は」としてあるが、「千載集」では「滝の音は」となって重出している。この集では「滝の音は」となっているが、定家は「拾遺集」を評価しており、 「百人秀歌」の方にのみある76俊頼の「山桜咲きそめしよりひさかたの雲居にまごう滝の白糸」にその思ひを秘めたのではないだろうか。 四条大納言と称されて、有職故実に詳しく、詩、歌、管弦のいずれにも秀でており、「三船の才」と称えられた。

多くの珠玉集や歌論書を残している。「前十五人歌合」,「後十五人歌合」,「和漢朗詠集」,「三十六人撰」,「深窓秘抄」(101人)などがあるが、「和漢朗詠集」は、 娘が道長男の教通に嫁する時に引き出物として編んだもの。父として愛情がほとばしり出てます。

対する赤染衛門も息子が大病になった時に住吉明神に祈って病を治したり家族思いであり、 公任が亡くなった年に曾孫の72大江匡房が誕生したが、その時産着を縫って歌を詠んでいます。彼女も大変長命でした。

28紀貫之を継ぐ和歌の大家ですが、28貫之(868〜945)、公任(966〜1041)、87俊成の師であった82基俊(1060〜1142)、 100定家(1162〜1241)と100年おきに長命の大家の出現がありますね。ちなみに3柿本人麻呂も660年位の誕生と言われてます。 しかし766年あたりには誰も見当たりません。771年に天武系から天智系にうつりましたが和歌暗黒時代だったようです。

※「王朝秀歌選」樋口芳麻呂 岩波書店 1983年
※「和漢朗詠集」全訳注 川口久雄 講談社学術文庫 2010年第44刷
※「藤原公任」小町谷照彦 集英社 1985年
※「赤染衛門集全釈」関根慶子 阿部俊子 林マリヤ 北村杏子 田中恭子 風間書房 昭和61年
=上にもどる=
赤染衛門
百59(秀63)

やすらはで
寝なましものを
さ夜ふけて
かたぶくまでの
月を見しかな


  
清少納言
秀60(百62)

夜をこめて
鳥のそら音に
はかるとも
よに逢坂の
関は許さじ
★清少納言 (964?〜1028?) (後拾遺集 雑二939)
☆夜の明けないうちに、鳥の鳴き声を真似て函谷関の番人をだませても、逢坂の関ではそうはいきませんよ。どんなことを言っても私は逢いませんよ。

             
橘則光母・右近尼、花山天皇乳母
||
橘則光
(965-?)
+++++ 60清少納言
(966?-1025?)
||
橘忠望女
(57能因の姉妹)
+++++ 則長
(982〜1034)
|| 「枕草子・三巻本」奥書に源経房(969〜1023)と則李によって広まったと記する。
(安貞二年1228・定家)
源経房姉は道長室の明子
「枕草子・能因本」は此処より始まる。 則李
(1025-1063)

清少納言は著名な歌人である45清原元輔を父に持ち、名を汚してはいけないと定子に詠まなくてもいいように願い出て許され、 随筆と言われる分野の足掛けとなる「枕草子」を生み出した。対する小式部内侍も61和泉式部を母にもち、母に代作を頼んでいるのではと噂されたりしている。 二世同士はともに余人には分からぬ苦労があったでしょうね。

※「枕草子のたくらみ」 山本淳子 朝日新聞出版 2017 第2刷
=上にもどる=
小式部内侍
百60(秀66)

大江山
いく野の道の
遠ければ
まだふみも見ず
天の橋立


   
 T.19  = 清少納言という名 = 

清=清原
少=わかい、わかもの
納言=ものもうす

清原家の若い子が物申しておる。=せいしょうのなごんちゃん
漢字で書けば、清少納言となり、誰が見ても官職の少納言である。=せい・しょうなごん

清少納言の父である45清原元輔は「後撰集」編纂に関わった当代一流の歌人の一人であった。990年に肥後守として現地で亡くなっている。 その3年後に、清少納言は肝いりで身分不相応ながらも中宮定子のそば近く仕えることになった。本来なら女房名は「肥後」になるのではと思うが。

父の元輔は藤原実頼宅に出入りしており、そこには孫の55公任などもいた。清少納言とはほぼ同い年であり男まさりの彼女とは良く知る間柄であり、 女房として出仕することが決まった時に、それにふさわしい名前としてウイットに富んた女房名を命名したのではないだろうか。 59公任は漢詩、和歌、管弦のどれにも優れていて「三船の才」と言われ、誰にも有無を言わせずと言うか興味深く納得させたのではないか。

「枕草子」を見ていても、 中宮定子に伺いに行けない状況を把握したうえでお題を押し付けられたりしても公任様の歌を元にしたら誰も何も言えないだろうとか、 公任様からのお題の返事など話題を作ってもらったりとか、幼馴染の親しみと気遣いがあったように感じる。

=上にもどる=

  
和泉式部
秀61(百56)

あらざらむ
この世のほかの
思ひ出に
今ひとたびの
逢ふこともがな
★和泉式部 (976?〜1030?) (後拾遺集 恋三763)
☆私はもうすぐ亡くなるでしょう。せめてあの世への思い出にもう一度あなたにお逢いしたいものです。

大江雅致(おおえのまさむね)女。橘道貞と結婚するが、冷泉天皇皇子為尊(ためたか)親王(977-1002)、 敦道(あつみち)親王(981-1007)と恋愛事件をおこす。敦道親王とのことは「和泉式部日記」に詳しい。

寛弘6年(1009)ごろに中宮彰子に仕え始めた。伊勢大輔とはお互いに歌人として有名だったようで、 彰子から「何かお話ししたら。」と言うことで、意気投合したのか夜通し語り合ったらしい。
寛弘6年(1009)敦良親王(後朱雀天皇)生 和泉式部出仕
寛弘5年(1008)敦成親王(後一条天皇)生 五日の産養の席に伊勢大輔列する。
寛弘4年(1007)新参者の伊勢大輔が歌を詠み評判となる。
寛弘3年(1006)5ヶ月間におよぶ里下がりの後に再出仕する。
寛弘2年(1005)12月29日紫式部初出仕となるが、直ぐに里下がりする。

伊勢大輔の歌がこの年の春のことと暦から限定されると、紫式部の初出仕が寛弘2年の年の暮れと言うことになるのだけど、実質翌年のことですよね。

※「伊勢大輔集注釈」久保木哲夫 平成4年6月1日初版発行 貴重本刊行会

=上にもどる=
伊勢大輔
百61(秀65)

いにしへの
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
にほひぬるかな


  
大弐三位
秀62(百58)

有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする
★大弐三位 (999?〜1082?)(後拾遺集 恋二709)
☆ 有馬山から、猪名の笹原に風が吹きおろすので、笹の葉がそよそよと鳴る。 その、そよという音のように、さあ、それですよ、 お忘れになったのはあなたの方、私はどうして忘れましょうか、忘れはしませんよ。

60番と同じように二世同士です。しかし、 此処では同じ二世同士と言っても対照的な人生でした。大弐三位は、藤原家良門流の一門に生まれ、母は64紫式部であり、上東門院彰子に仕えて、 権門に愛され、後冷泉天皇の乳母の一人となり、最終的に太宰大弐高階成章の妻となった。それに伴い、越後弁、従三位典侍、 大弐三位など呼び名が変わっていった。大変長命であり、白河天皇の代にあった「内裏後番歌合」(承暦二年・1078年)では、 当時播磨守であった息子の為家(1038-1106)の代わりに出詠して72大江匡房(1041-1111)と相対している。

「紫式部の身辺」門田文衛より、「為房卿記」では永保二年(1082)三月十三日条に為家が母の所労によって石清水臨時祭の使を辞した旨の記載があるので、 この頃老衰が加わってまもなく没したものと推察している。

100定家は自分の息子に紫式部の孫である為家の名前を命名したのだろうか???大弐三位は母方の祖父の為時から為をもらって為家としたのでしょうか。 父方の祖父も為輔と為がつきます。また曾祖父(母紫式部の母方の祖父)は為信です。

※「紫式部集 付大弐三位集・藤原惟規集」南波浩 校注 岩波文庫 1979年8月10日 第6刷発行
=上にもどる=
清少納言
百62(秀60)

夜をこめて
鳥のそら音は
はかるとも
よに逢坂の
関は許さじ


  
赤染衛門
秀63(百59)

やすらはで
寝なましものを
さ夜ふけて
かたぶくまでの
月を見しかな
★赤染衛門 (958?〜1041?)(後拾遺集 恋二680)
☆こんなことならためらわず寝てしまったでしょうに。お約束を頼りに待っていたら、夜が更けてゆき、 とうとう西の山に傾く月を見てしまいました。

中関白殿の道隆(953-995・55儀同三司母の夫、68道雅の祖父)が蔵人の少将だった頃(970年代後半)に赤染衛門の姉妹のところに通っていたが、 その姉妹に代わって詠んだもの。

この歌は「馬内侍集」にもある。87俊成は馬内侍の歌としているが、100定家は赤染衛門の歌としている。

「赤染衛門集」130  「続後撰集」雑上1037
もろともに 見るよもありし 花桜 人づてに聞く 春ぞかなしき
・ご一緒に見る世もあった御前の桜でしたが、里で人づてに花の便りを聞く今年の春は悲しいことです。

「長徳の変」<T.17=一条朝前後=・長徳の変>が起こった年の春、 「伊周に親しい人の縁者だった者は、到底出仕できないだろう、といううわさです」と聞いたので、自分の家に籠っていた春、 北の方(倫子)のお言葉で「満開の桜を見せたいものですね」とおっしゃったので、差しあげた歌。

娘の江侍従が伊周の従兄である高階業遠(高階敏忠男)の室である。かっての赤染衛門の恋人である大江為基は伊周の叔母(55儀同三司母の姉妹)と結婚している。 しかし、この時には為基はすでに出家していたし、この63番の歌の道隆とのことは20年ぐらい昔のことだが、赤染衛門は高階家に近い人と思われていたのでしょう。

後のことだが、息子の挙周は伊周の従妹にあたる高階明順女と結婚している。 ちなみに62大弐三位の夫である高階成章は高階業遠男であり、65伊勢大輔の夫は、高階明順男の高階成順である。

「赤染衛門集」248
すみぞめの 袂になると 聞きしよりも 見しにぞふぢの いろはかなしき
・父上様が亡くなられて喪服中と遠くで噂に聞いた時よりも、こうして、いま、目のあたりに喪服姿を排しますと、 いちだんと悲しい思いがいたします。

寛弘七年(1010年)尾張守から丹波守に代わる時に上京して喪服姿の68道雅に会った時に、その哀れさに同情を禁じ得ないのである。

周囲から高階家に親しい人と噂されることもあるくらいなので、父伊周を亡くして喪に服している68道雅を見て、哀れに思うのも至極当然でしょう。 また「紫式部日記」によると、中宮様や殿の辺りでは、「匡衝衛門」とあだ名で呼んでいると書かれてある。 こういう赤染衛門が、本当に「栄花物語」を書いたのだろうか。

※「赤染衛門集全釈」関根慶子 阿部俊子 林マリヤ 北村杏子 田中恭子 風間書房 昭和61年9月30発行
※ 「紫式部日記」山本淳子訳注 角川ソフィア文庫 平成22年8月25日初版発行
=上にもどる=
左京大夫道雅
百63(秀68)

今はただ
思ひ絶えなむ
とばかりを
人づてならで
いふよしもがな




 
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