正面玄関 ★≪百人秀歌と百ト一首≫ ★≪最勝四天王院≫ ★≪定家略年譜≫ ★≪北斗七星信仰≫ ★≪百人秀歌の歌人たち



 

 ◆ 最勝四天王院を甦らせる   2023/7/10

   <宇都宮頼綱に送った色紙和歌

承元元年(1207年)、XX後鳥羽院は最勝四天王院の四十六間ある障子(襖)に名所絵と歌を描かせようとしました。その遂行の中心的人物となったのが100定家です。 46個所の名所の選定をし、XX後鳥羽院が自身を含めて10人の歌人(注)に46名所を一首ずつ都合460首の歌を集めました。 XX後鳥羽院はその中から1首ずつ歌を選び、46首の歌と絵を障子に張らせたのです。

(注) 10人の歌人
歌人名の前にある数字は「百人秀歌」番号です。  
1 久我通光 1187-1248 村上源氏 顕房流 通親三男 母後鳥羽院乳母 
2 俊成卿女 1171?-1251以降 祖父87俊成の養女 通親次男の通具室 具定母
3 源具親 村上源氏 俊房流 妹は後鳥羽院宮内卿 妻は北条義時前室の姫の前
4 藤原有家 1155-1216 魚名三男の末茂流 六条藤家 80顕輔孫 84清輔甥
5 藤原秀能 1184-1240 北面の武士 承久の乱大将 如願 隠岐島に渡る 
6 1 XX後鳥羽院 1180-1239 XX順徳院父 1221承久の乱後に隠岐島配流
7 2 96慈円 1155-1225 79忠通男 95良経叔父 天台座主 「愚管抄」記す
8 3 97藤原雅経  「みよし野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣打つなり」
 都より南にある吉野
9 4 99藤原家隆 「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」
 都より北東にある上賀茂神社
10 5 100藤原定家 「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」
 都より西にある淡路島

心血注いだ最勝四天王院の御堂を定家自身は見ることを許されませんでした。 さらに建保七年(1219年)、XX後鳥羽院はこの院を他所に移してしまいました。 どうもこの御堂で関東調伏のための壇を立てて呪詛していたらしいのです。

97参議雅経を介して師弟関係をむすんでいた98鎌倉三代将軍実朝が暗殺されたことなど100定家の無念さは想像もつきません。

前ページで紹介した<百人秀歌と百ト一首>の二つの歌集の中に留めおいた思ひの一つに最勝四天王院の無念さもあったのです。 これは「百人秀歌」の方で思ひをこめたのでしょうね。「秀73春日野の」と「秀90紀の国の」の2首は「百ト一首」にはないのですから。 百74俊頼の初瀬の歌がここでも両集を繋いでいます。「百ト一首」の方だけでは歌枕のある歌が多いと言われるだけです。

100定家と言えどもこれらの集を編むために、歌を色紙形に書いてパズルのごとく並べ替えたり組み合わせたりしたことでしょう。

−−−−−
「百人秀歌」と「百ト一首」の二つの歌集の105首の歌とその歌の出典にある勅撰和歌集の詞書から歌枕の地や歌人に関係のある地を最勝四天王院の46歌枕に照らし合わせて表を作ってみました。

48ヶ所(2x2x2x2x3)の名所旧跡より45首(5X3X3)(歌36首、詞9首)の歌が浮かび上がりました。 

1.「秀6あまのはら」の詞書きにある、「もろこしにて月を見てよみける」による「唐土」は、「D・西国の名所」に含まれるものではないですが、 100定家にとっては、「松浦宮物語」を呼び起こさせるものとして、D−18の松浦山(佐賀県唐津湾)とともに必要だったのでしょうか。 

2.「47由良の戸 」は「D・西国の名所」ではなく、100定家の時代では「B・摂津・紀伊の名所」と考えられていました。

3.山城の名所から東国の名所へ行く道として「F・伊勢路の名所」を封印して志賀の山越えから伊吹山のコースに変えています。
 
 
定家独撰による地上の制覇
 ●「百人秀歌」と「百ト一首」より46首(45首+1首)に関連する地

日文研データーベースの「最勝四天王院和歌」(最勝四天王院障子和歌)より10首ごとに歌枕を抜粋し、 AからHの八か所(46歌枕)に分類しました。それに沿って「百人秀歌」から地名のある歌を撰びましたが74俊頼の歌は「百ト一首」にのみあり両集を繋いでいます これらの歌によって北は陸奥から西は海を越えて唐土まで自分を中心として掌握し、600年間の時空をも収めてしまったのです。  
   
   A 大和の名所 1 春日野 2 吉野 3 三輪山 4 龍田川 5 初瀬
        A 定家が撰んだ名所10個所 13首
秀73 春日野 秀百2 天の香久山 秀97吉野(の里秀) &29 秀6 三笠山 秀23 手向山 秀57 三室山
春日野の
下萌えわたる
草の上に
つれなく見ゆる
春の淡雪
春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山
み吉野の
山の秋風
小夜ふけて
ふるさと寒く
衣うつなり
朝ぼらけ
有明の月と
見るまでに
吉野の里に
触れる白雪
天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
このたびは
幣も取り敢へず
手向山
紅葉の錦
神のまにまに
あらし吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり
秀28(詞) & 秀65 & 秀82(詞) 奈良(興福寺) 秀10&秀57龍田川 百74 初瀬 秀71(詞) 大峰山
人はいさ
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香ににほひける
いにしへの
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
にほひぬるかな
契りおきし
させもが露を
命にて
あはれ今年の
秋もいぬめり
ちはやぶる
神代も聞かず
竜田川
からくれなゐに
水くくるとは
あらし吹く
三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の
錦なりけり
憂かりける
人をはつせの
山おろしよ
はげしかれとは
祈らぬものを
もろともに
あはれと思へ
山桜
花よりほかに
知る人もなし
   
   B 摂津、紀伊の名所 6 難波 7 住吉 8 芦屋 9 布引の滝 10 生田杜 11 和歌浦 12 吹上浜
        B 定家が撰んだ名所6個所 7首
秀11 住の江 秀百19 難波潟 秀百20 難波 秀89 難波江 秀74 高師の浜 秀90 紀ノ國 秀90 由良の岬 秀47 由良の戸
住の江の
岸に寄る波
よるさへや
夢の通ひ路
人目よくらむ
難波潟
短き蘆の
ふしの間も
 逢はでこの世を
すぐしてよとや
わびぬれば
今はたおなじ
難波なる
みをつくしても
逢はむとぞ思ふ
難波江の
蘆のかりねの
ひとよゆゑ
みをつくしてや
恋ひわたるべき
音に聞く
高師の浜の
あだ波は
かけじや袖の
ぬれもこそすれ
きのくにの
ゆらのみさきに
拾ふてふ
たまさかにだに
逢い見てしかな
きのくにの
ゆらのみさきに
拾ふてふ
たまさかにだに
逢い見てしかな
由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え 
行く方も知らぬ
恋の道かな
   
   C 交野から播磨の名所 13 交野 14 水無瀬川 15 須磨 16 明石 17 飾磨
        C 定家が撰んだ名所3個所 2首
秀81 淡路島 秀81 須磨の関 秀100 松帆の浦
淡路島
かよふ千鳥の
鳴く声に
 幾夜め覚ぬ
須磨の関守
淡路島
かよふ千鳥の
鳴く声に
 幾夜め覚ぬ
須磨の関守
来ぬ人を
まつほの浦の
夕なぎに 
焼くや藻塩の
身もこがれつつ









   
   D 西国の名所 18 松浦山(佐賀県唐津湾) 19 因幡 20 高砂 21 野中の清水(播磨) 22 天橋立
        D 定家が撰んだ名所8個所 5首
秀6(詞) 唐土 秀7(詞) 隠岐の国 秀9 因幡の山 秀31 高砂 秀62有馬山 秀62 伊那
天の原
ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
わたの原
八十島かけて
こぎ出でぬと
人には告げよ
あまのつり舟
立ち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰り来む
たれをかも
知る人にせむ
高砂の 
松も昔の
友ならなくに
有馬山
猪名の笹原
風吹けば 
いでそよ人を
忘れやはする
有馬山
猪名の笹原
風吹けば 
いでそよ人を
忘れやはする
秀66 大江山 秀66 生野 秀66 天橋立
大江山
いく野の道の
遠ければ 
まだふみも見ず
天の橋立
大江山
いく野の道の
遠ければ 
まだふみも見ず
天の橋立
大江山
いく野の道の
遠ければ 
まだふみも見ず
天の橋立









   
   E 山城の名所 23 宇治川 24 大井川 25 鳥羽田 26 伏見 27 泉川 28 小塩山 29 逢坂山(逢坂関)
        E 定家が撰んだ名所11個所 11首
秀14宇治山 秀67 宇治川 秀36 みかの原 秀36 泉川 秀16 & 秀60 逢坂山関 秀35 逢坂山
わが庵は
都のたつみ
しかぞすむ
世をうぢ山と
人はいふなり
朝ぼらけ
宇治の川霧
たえだえに
あらはれわたる
瀬々の網代木
みかの原
わきて流るる
いづみ川 
いつ見きとてか
恋しかるらむ
みかの原
わきて流る
るいづみ川 
いつ見きとてか
恋しかるらむ
これやこの
行くも帰るも
別れつつ
知るも知らぬも
逢坂の関
夜をこめて
鳥のそら音に
はかるとも 
よに逢坂の
関は許さじ
名にし負はば
逢坂山の
さねかづら 
人に知られで
くるよしもがな
秀34 小倉山 秀70(詞)
梅津の山里
秀52(詞)
河原院
秀59(詞)
大覚寺滝殿
秀99 ならの小川
(上賀茂神社)
をぐら山
峰のもみぢ葉
心あらば 
今ひとたびの
みゆき待たなむ
夕されば
門田の稲葉
おとづれて 
蘆のまろやに
秋風ぞ吹く
八重むぐら
茂れる宿の
寂しきに 
人こそ見えね
秋は来にけり
滝の音は
絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほとまりけれ
風そよぐ
ならの小川の
夕暮れは
みそぎぞ夏の
しるしなりける





   
  F 伊勢路の名所  30 志賀の浦 31 鈴鹿山 32二見の浦 33大淀浦
   
 F 近江路の名所
        F 定家が撰んだ名所2個所 2首+1首
秀百32(詞)
志賀の山越え
近江宮
天智天皇
秀50 伊吹山
山川に
風のかけたる
しがらみは 
流れもあへぬ
紅葉なりけり
秋の田の
かりほの庵の
苫を荒み
わが衣手は
露にぬれつつ
かくとだに
えやはいぶきの
さしも草 
さしも知らじな
燃ゆる思ひを





   
   G 東国の名所 34 鳴海の浦(尾張) 35 浜名の橋 36 宇津の山(駿河) 37 更科山(信濃) 38 清見潟(駿河)
                 39 富士山 40 武蔵野 41 白河の関
        G 定家が撰んだ名所4個所 2首
4 田子の浦 4 富士山 秀12 筑波嶺 秀12男女川
田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ
田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ
筑波嶺の
峰より落つる
みなの川 
恋ぞつもりて
淵となりける
筑波嶺の
峰より落つる
みなの川 
恋ぞつもりて
淵となりける






   
   H 陸奥の名所    42 阿武隈川 43 安達ヶ原 44 宮城野の原 45 安積の沼 46 塩釜の浦
        H 定家が撰んだ名所4個所 3首
秀17 陸奥 秀17 信夫 秀45 末の松山 秀91 雄島
陸奥の
しのぶもぢずり
たれゆゑに 
乱れむとおもふ
われならなくに
陸奥の
しのぶもぢずり
たれゆゑに
乱れむとおもふ
われならなくに
契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ 
末の松山
波越さじとは
見せばやな
雄島のあまの
袖だにも 
ぬれにぞぬれし
色はかはらず






 
  各名所の歌数 45首(5X3X3)+1首
A大和の名所 B摂津紀伊の名所  C交野から播磨の名所 D西国の名所 E山城の名所 ※F近江路の名所 G東国の名所  H陸奥の名所 
13首 7首 2首 5首 11首 2首+1首 2首 3首
 
 
繰り返しますが、「百人秀歌」は決して宇都宮頼綱に色紙を贈るために編んだ歌集ではなく、 また「趣くままに撰んだので有名な人、秀逸の作などはずしている」と、集の最後に書いてあるように、 97雅経までの歌では、3首を除いて(59公任、83道因法師、90長家)すべて「定家八代抄」に入っているので秀歌を集めたものに間違いないでしょうが、 単なる「秀歌集」の一つではないんですよね。

伊勢路の名所を近江路に変更したのも、定家が青年期を過ごした平家全盛の時代から滅亡への道を垣間見てきて、清盛の伊勢平氏の出身地への伊勢路を廃して、 滋賀の山越えでの歌を選んだのでしょうね。勿論、歌集の初めである天智天皇の近江宮への道としてでもあるでしょうが。

「古今集」仮名序の初めに、和歌は、人の心を種として、多くの言葉となったものである。 心に思うことを、この世の事物に託し、目に見えない霊に感じ入らせ、 いかなる人の心をも慰めるのが歌であると言うようなことから始まっている。100定家は、調伏するという間違った目的ではなく、 未来永劫人の心の中に生き続けられるような思いをも込めてこの歌集を編んだのではないだろうか。
 
 
 ● 宇都宮頼綱に送った色紙和歌  

歌集を作っている噂が広まって宇都宮頼綱から色紙を書いてほしいと所望された時、
襖絵に相応しい歌枕を含んだ歌を選び出し、1天智天皇に始まって97雅経、
99家隆に及ぶと「明月記」にあるように、色紙に歌人名のない歌を書いて送りましたが、
この二つの歌集の編纂目的の一つである最勝四天王院の無念さを歌集の中に込める
ということとは無関係でしょう。定家は何枚の式紙を書いたのか誰にも分かりません。

寛喜元年(1229年)、100定家は宇都宮頼綱に障子歌として大和国名所五首を請われて詠んで送っています。
それらの歌は、障子一枚につき一首ずつなのか、障子四枚くらいに描かれた絵に能書家が流麗に五首を
散らし書きしたのでしょうか。また、寛喜三年(1231年)には、101公経に「源氏物語」歌を障子絵に書く
ために歌を書き出すよう請われています。残念ながらこれは何首書き出して送ったのか分かりません。

2首ずつ障子(襖)に貼るとのことですが、2首ずつと考えることが既成概念に囚われている
ということなのかもしれません。上の各名所の歌数を見てると、16枚(4X4)くらいの障子に描かれた
名所絵に合わせて、100定家が書いた色紙形和歌(縦17.5p X 横15.0p)を散らして貼ったのかもしれませんね。
この45首+1首から11首を除いて「5」にちなんで35首(5X7)にしたのかな?


 4枚立ち4面として分ける。 色紙形和歌(縦17.5p X 横15.0p) 
五島美術館蔵「小倉色紙 伝 藤原定家筆」
  障子1枚につき色紙1枚から4枚を貼る。
4枚立ち第一面 A大和の名所 10首
天の原ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に出でし月かも


春日野の下萌えわたる
草の上に
つれなく見ゆる春の淡雪


人はいさ心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の香ににほひける

いにしへの奈良の都の
八重桜
けふ九重ににほひぬるかな



春過ぎて夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ天の香具山



このたびは幣も取り敢へず
手向山
紅葉の錦神のまにまに


あらし吹く三室の山の
もみぢ葉は
竜田の川の錦なりけり


ちはやぶる神代も聞かず
竜田川
からくれなゐに水くくるとは

み吉野の山の秋風
小夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり



朝ぼらけ有明の月と
見るまでに
吉野の里に触れる白雪



 
4枚立ち第二面 B摂津紀伊の名所 C交野から播磨の名所 D西国の名所 10首
紀の国のゆらのみさきに
拾ふてふ
たまさかにだに逢ひ見てしがな


由良のとを渡る船人
かぢを絶え
行方も知らぬ恋の道かな


音に聞く高師の浜の
あだ波は
かけじや袖のぬれもこそすれ

わびぬれば今はたおなじ
難波なる
みをつくしても逢はむとぞ思ふ


難波潟短き蘆の
ふしの間も
逢はでこの世をすぐしてよとや

来ぬ人をまつほの浦の
夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ


淡路島かよふ千鳥の
鳴く声に
幾夜ねざめぬ須磨の関守


有馬山猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を忘れやはする

立ち別れいなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む



大江山いく野の道の
遠ければ
まだふみもみず天の橋立



 
4枚立ち第三面 E山城の名所 9首
夕されば門田の稲葉
おとづれて
蘆のまろやに秋風ぞ吹く


小倉山峰のもみぢ葉
心あらば
いまひとたびのみゆき待たなむ


滝の音は絶えて久しく
なりぬれど
名こそ流れてなほとまりけれ

風そよぐならの小川の
夕暮は
みそぎぞ夏のしるしなりける




朝ぼらけ宇治の川霧
たえだえに
あらわれわたる瀬々の網代木



わが庵は都のたつみ
しかぞ住む
世をうぢ山と人はいふなり



これやこの行くも帰るも
別れては
知るも知らぬも逢坂の関


夜をこめて鳥の空音は
はかるとも
よに逢坂の関はゆるさじ


名にし負はば逢坂山の
さねかづら
人に知られでくるよしもがな

 
4枚立ち第四面 ※F近江路の名所 G東国の名所 H陸奥の名所 6首
山川に風のかけたる
しがらみは
流れもあへぬ紅葉なりけり


秋の田のかりほの庵の
苫を荒み
わが衣手は露にぬれつつ



田子の浦にうちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ








筑波嶺の峰より落つる
みなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる








見せばやな雄島のあまの
袖だにも
濡れにぞ濡れし色はかはらず


契りきなかたみに袖を
しぼりつつ
末の松山波越さじとは





参考資料
※「明月記研究提要」明月記研究会編 八木書店 2006年11月20日 初版発行
※「歌が権力の象徴になるとき」屏風歌・障子歌の世界 渡邉裕美子 角川学芸出版 平成23年1月25日初版発行 
※「新版古今和歌集」 高田裕彦訳注 角川ソフィア文庫 平成24年10月20日 五版発行



 

正面玄関にもどる ‖ 上にもどる