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いにしへの鹿鳴く野辺のいほりにも心の月は雲らざりけむ  (巻第二十 釈教歌1950番 前大僧正慈円)     2016/8/3−2016/8/30

 
和歌番号 和歌
1916 なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむ限りは 
なおたのめ しめじがはらの させもぐさ わがよのなかに あらんかぎりは
やはり私を頼みにしなさいね。もぐさで身を焼くように思いの火で心をこがすことも私が世の中にいる限りは頼ってくれて大丈夫。
1917 何か思ふ何をか歎く世の中はただ朝顔の花の上の露
なにかおもう なにをかなげく よのなかワ ただあさがおの はなのうえのつゆ
何を思い煩い、何を嘆くと言うのか。そんな必要ないでしょ。世の中はただ朝顔の花の上に置いた露のようにはかないですから。
1918 山深く年降るわれもあるものをいづちか月の出でてゆくらむ
やまふかく としふるわれも あるものを いずちかつきの いでてゆくらん
山深くに長年いて、歳もとってしまった私がいるのに月は一体どこへ行こうとしているのでしょう。
1919 蘆そよぐ潮瀬の波のいつまでか憂き世の中に浮かびわたらむ
あしそよぐ しおせのなみの いつまでか うきよのなかに うかびわたらん
蘆がそよぐ難波の潮流の速い海の瀬にたつ波はすぐに消えてしまうが、私もいつまでこの憂き世に浮かび続けられるのか。
1920 阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
あのくたら さんみゃくさんぼだいの ほとけたち わがたつそまに みょうがあらせたまえ
この上なくすぐれ正しく平等であるみ仏たちよ、比叡山中堂建立のために杣山に立ち入り、杣木を切ることにご加護があることを。
1921 法の舟さしてゆく身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ
のりのふね さしてゆくみぞ もろもろの かみもほとけも われをみそなえ
求法のために船にのり、唐土へ棹さして行くこの身です。神も仏もみな私を見て守ってくださいますように。
1922 しるべある時にだにゆけ極楽の道にまどへる世の中の人 
しるべある ときにだにゆけ ごくらくの みちにまどえる よのなかのひと
せめて道しるべのある時にだけでも行けばよいのに。極楽に行く道に迷っている世の中の人よ。
1923 寂寞の苔の岩戸のしづけきに涙の雨の降らぬ日ぞなき
じゃくまくの こけのいわとの しずけきに なみだのあめの ふらぬひぞなき
寂寞無人声(じゃくまくむにんじょう)という経文どおり、苔の生えた御嶽の笙の岩屋の静寂さに涙があふれ出ない日はありません。
1924 南無阿弥陀ほとけの御手に懸くる糸のをはり乱れぬ心ともがな
なもあみだ ほとけのみてに かくるいとの おわりみだれぬ こころともがな
南無阿弥陀仏と唱え、仏のみ手に懸ける五色(青黄赤白黒)の糸の端が乱れないように、乱れることのない心で死を迎えたいものです。
1925 われだにもまづ極楽に生まれなば知るも知らぬもみな迎へてむ
われだにも まずごくらくに うまれなば しるもしらぬも みなむかえてん
私だけでもまず極楽に往生したら、知ってる人も知らない人も区別なく皆極楽へ迎えましょう。
1926 濁りなき亀井の水をむすびあげて心の塵をすすぎつるかな
にごりなき かめいのみずを むすびあげて こころのちりを すすぎつるかな
濁りなく澄んだ四天王寺の亀井堂の井泉の水を掬いあげて、心の塵の楽欲(六塵。色、声、香、味、触、法)を洗い清めました。
1927 わたつ海の底より来つるほどもなくこの身ながらに身をぞ極る
わたつうみの そこよりきつる ほどもなく このみながらに みをぞきわむる
海竜王の八歳の竜女は大海の底からやってきてまもなく、そのまま変成男子(へんじょうなんし)即身成仏したです。
1928 数ならぬ命は何か惜しからむ法説くほどを忍ぶばかりぞ 
かずならぬ いのちはなにか おしからん のりとくほどを しのぶばかりぞ
物の数でもない私の命など惜しいこともありません。教えを説き広める間、どのような迫害を受けようとも耐え忍ぶだけです。
1929 紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲にけり
むらさきの くものはやしを みわたせば のりにあふちの はなさきにけり
紫野の雲林院で紫雲を思わせる雲がかかっている林を見渡すと、それは仏法に逢うという樗(おうち)の花が咲いているのでした。
1930 谷川の流れし清く澄みぬればくまなき月の影も浮かびぬ
たにがわの ながれしきよく すみぬれば くまなきつきの かげもうかびぬ
谷川の流れも清く澄んだので、全く曇りのない月の光も浮かび上がりました。
1931 願わくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法のともし火
ねがわくば しばしやみぢに やすらひて かかげやせまし のりのともしび
願いが叶うのなら、今しばらく闇路のようなこの憂き世に逡巡として、比叡の仏法のともし火をかかげられるかな。
1932 説く御法きくの白露よるはおきてつとめて消えむほとをしぞ思ふ
とくみのり きくのしらつゆ よるはおきて つとめてきえん ほどをしぞおもう
釈尊の説かれた教えを聞く夜は、菊の白露が置くように起きて勤めて、早朝はその露のように消えてしまおうと思います。
1933 極楽へまだわが心ゆきつかず羊の歩みしばしとどまれ
ごくらくへ まだわがこころ ゆきつかず ひつじのあゆみ しばしとどまれ
極楽往生出来るまでにまだ私の心は修行し切れてません。死に近づいて行くトボトボとした歩みの時間さえしばし止まって。
1934 わが心なほ晴れやらぬ秋霧にほのかに見ゆる有明の月 
わがこころ なおはれやらぬ あきぎりに ほのかにみゆる ありあけのつき
私の心は、いまだはっきりと晴れない、秋霧の中でほのかに見える有明の月のようです。
1935 奥山にひとり憂き世は悟りにき常なき色を風にながめて
おくやまに ひとりうきよは さとりにき つねなきいろを かぜにながめて
奥山に一人で住んで憂き世であることを悟りました。無常な世を花や木々の葉が風にまかせて散るのを眺めながら。
1936 色にのみ染めし心のくやしきをむなしと説ける法のうれしさ
いろにのみ そめしこころの くやしきを むなしととける のりのうれしさ 
形あるものばかりとらわれてきた心が後悔されるが、すべての存在は空であるとの教えは嬉しいことです。
1937 紫の雲路にさそふ琴の音に憂き世を払ふ峰の松風
むらさきの くもぢにさそう ことのねに うきよをはらう みねのまつかぜ
紫雲のたなびく中、極楽浄土への道にさそう聖衆の奏でる琴の音とともに憂き世の悩みを吹き払う峰の松風の音が聞こえる。
1938 これやこの憂き世のほかの春ならむ花のとぼそのあけぼのの空
これやこの うきよのほかの はるならん はなのとぼその あけぼののそら
これがその憂き世の他の春なんでしょうか。扉を開けると蓮の花が咲いている曙の空です。
1939 春秋に限らぬ花におく露はおくれ先立つ恨みやはある
はるあきに かぎらぬはなに おくつゆワ おくれさきだつ うらみやワある
春や秋とか関わりなくずっと咲いている極楽の蓮の花に置く露は、前に落ちたとか後から落ちたとかいう恨みなどありはしない。
1940 立ちかへり苦しき海におく網も深き江にこそ心引くらめ 
たちかえり くるしきうみに おくあみも ふかきえにこそ こころひくらめ
立ち返って、海に仕掛けておいた網を深い入り江で引くのです。聖衆も人間の世界に戻って深い縁によって極楽へ導くのです。
1941 いづくにもわが法ならぬ法やあると空吹く風に問へど答へぬ
いずくにも わがのりならぬ のりやあると そらふくかぜに とえどこたえぬ
信仰する法華経でない他の教えが、この世のどこにでもあるのかどうか空に吹く風に問うても何も答えてくれません。
1942 思ふなよ憂き世の中を出ではてて宿る奥にも宿はありけり
おもうなよ うきよのなかを いではてて やどるおくにも やどはありけり
ここが憂き世を飛び出して悟りきった究極の真理の宿りにいると思わないように。その奥にもさらに真理の宿はあるのですよ。
1943 鷲の山けふ聞く法の道ならで帰らぬ宿にゆく人ぞなき
わしのやま きょうきくのりの みちならで かえらぬやどに ゆくひとぞなき
インドの霊鷲山(りょうじゅせん)で釈迦が説いた教えを今日聞くが、この道以外では悟りの境地にたどり着く人はいない。
1944 おしなべてむなしき空と思ひしに藤咲ぬれば紫の雲
おしなべて むなしきそらと おもいしに ふじさきぬれば むらさきのくも
一様になにもない世と思ってたが、藤の花が咲けば極楽世界の紫雲がかかったようです。
1945 おしなべて憂き身はさこそ鳴海潟満ち干る潮の変るのみかは
おしなべて うきみはさこそ なるみがた みちひるしおの かわるのみかワ
大体において人の憂き身は鳴海潟と同じように激しいものです。潮が満ちたり引いたりするあの潟だけではありません。
1946 朝日さす峰の続きは芽ぐめどもまだ霜深し谷の陰草 
あさひさす みねのつづきワ めぐめども まだしもふかし たにのくさかげ
朝日がさす、峰に続く尾根の草木は芽吹いてますが、谷の陰に生えている草にはまだ霜が深く置いてます。
1947 底清く心の水を澄まさずはいかが悟りの蓮をも見む
そこきよく こころのみずを すまさずワ いかがさとりの はちすをもみん
底まで清く、心の池の水を澄まさないと、どうして美しい蓮の花が咲く(妙観察智に達する)のを見ることが出来ましょうか。
1948 さらずとて幾代もあらじいざやさは法にかへつる命と思はむ
さらずとて いくよもあらじ いざやさワ のりにかえつる いのちとおもわん 
そうでなくてもそう長くも生きてられないでしょう。さあそれならば仏法を得ることと引き換えに捨てた命と思うことにしよう。
1949 深き夜の窓打つ雨に音せぬは憂き世を軒のしのぶなりけり
ふかきよの まどうつあめに おとせぬワ うきよをのきの しのぶなりけり
夜更けに窓を打つ雨に打たれても音をたてないものは、憂き世を退いてひっそり暮らす隠者の軒に生えるしのぶ草です。
1950 いにしへの鹿鳴く野辺のいほりにも心の月は曇らざりけむ
いにしえの しかなくのべの いおりにも こころのつきワ くもらざりけん
昔、インドの鹿野苑の野辺(釈迦が小乗経典を説いた)の草庵でも、仏法の悟りに至った心の月は曇らなかったことだ。」
1951 道の辺の蛍ばかりをしるべにてひとりぞ出づる夕闇の空
みちのべの ほたるばかりを しるべにて ひとりぞいずる ゆうやみのそら
道のほとりに飛ぶ蛍の光だけを道しるべにして、一人で出て行こうとしている夕闇の空の下。
1952 雲晴れてむなしき空に澄みながら憂き世の中をめぐる月かな 
くもはれて むなしきそらに すみながら うきよのなかを めぐるつきかな
雲が晴れて虚空に澄んだ光を差しながら、この憂き世の夜を巡っている月です。
1953 吹く風に花たちばなやにほふらむ昔覚ゆるけふの庭かな
ふくかぜに はなたちばなや におうらん むかしおぼゆる きょうのにわかな
吹いてくる風に花橘の香りがしているのでしょうか。釈迦が説法された昔のことが偲ばれる有難い今日の法会です。
1954 闇深き木の下ごとに契りおきて朝立つ霧のあとの露けさ
やみふかき このもとごとに ちぎりおきて あさたつきりの あとのつゆけさ
まだ闇が深い中で木々ごとに約束して朝早くたつ霧のあとで木々に置いた露の深いこと。
1955 けふ過ぎぬ命もしかどおどろかす入相の鐘の声ぞかなしき
きょうすぎぬ いのちもしかど おどろかす いりあいのかねの こえぞかなしき
今日も一日過ぎてしまった。命もまた同じように滅びていくのだと気づかせる夕暮れ時の鐘の音は身にしみます。
1956 草深き狩場の小野を立ち出でて友まどはせる鹿ぞ鳴くなる
くさふかき かりばのおのを たちいでて ともまどわせる しかぞなくなる
草深い狩場の野を出て、元居た場所にいる鹿たちをまどわせている鹿が鳴いている声がします。
1957 そむかずはいづれの世にかめぐり逢ひて思ひけりとも人にしられむ
そむかずワ いずれのよにか めぐりあいて おもいけりとも ひとにしられん
どの世に父母と巡り会って、感謝の思いを知ってもらえるだろうか。出家してこそ、父母を救い、その恩に報うことが出来るのです。
1958 逢ひ見ても峰に別るる白雲のかかるこの世のいとはしきかな 
あいみても みねにわかるる しらくもの かかるこのよの いとわしきかな
逢っても、峰にかかる白雲がいずれ分かれて行くように、逢った人とは分かれる運命にあるこの世がいとわしく思います。
1959 音に聞く君がりいつか生の松待つらむものを心づくしに
おとにきく きみがりいつか いきのまつ まつらんものを こころづくしに
噂に聞く生の松原の阿弥陀如来のもとにいつ行けましょうか。待っていて下さるでしょうに、心を労して筑紫の地で。
1960 別れにしその面影の恋しきに夢にも見えよ山の端の月
わかれにし そのおもかげの こいしきに ゆめにもみえよ やまのはのつき
涅槃に入った釈迦のその面影が恋しいのでせめて夢にでも現れてください。霊鷲山の端に出た月にも似たあの釈尊のお顔を。
1961 わたつ海の深きに沈むいさりせで保つかひある法を求めよ
わたつうみの ふかきにしずむ いさりせで たもつかいある のりをもとめよ
大海の地獄のような深い底に潜って魚業をしたりしないで、海苔を求めるように効能のかいある法の捜し求めなさい。
1962 浮草の一葉なりとも磯隠れ思ひなかけそ沖つ白波
うきくさの ひとはなりとも いそがくれ おもいなかけそ おきつしらなみ
浮き草のたった一葉のようなわずかな物でも、こっそり隠れて、人の物を取ったりしてはいけませんよ、盗賊たちよ。
1963 さらぬだに重きが上に小夜衣わがつまならぬつまな重ねそ
さらぬだに おもきがうえに さよごろも わがつまならぬ つまなかさねそ
そうでなくても夜具は重たいのに、自分の衣の褄でない他人の衣の褄を重ねてはいけません。
1964 花の本露のなさけはほどもあらじ酔ひな勧めそ春の山風 
はなのもと つゆのなさけワ ほどもあらじ ゑひなすすめそ はるのやまかぜ 
花の下でお酒を酌むというわずかな楽しみはすぐに醒めてしまうでしょう。ですから酔うことを勧めないでください、春の山風さん。
1965 憂きをなほ昔のゆゑと思はずは いかにこの世を恨みはてまし 
うきをなお むかしのゆえと おもわずワ いかにこのよを うらみはてまし
このつらい人生をやはり前世の因果の報いだと思わなければ、どんなにか恨んでこの世を去ることになるでしょう。
1966 渡すべき数もかぎらぬ橋柱いかに立てける誓ひなるらむ
わたすべき かずもかぎらぬ はしばしら いかにたてける ちかいなるらん
彼岸へ渡す生きとし生けるものの数も限定しない程の多くの誓願である橋柱を仏は建てられたのかなあ。
1967 今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀の御国の夕暮れの空
いまぞこれ いりひをみても おもいこし みだのみくにの ゆうぐれのそら
今がそれ、夕日を見ては思いこしてきた阿弥陀如来の御国、西方極楽浄土の夕暮れの空なんです。
1968 いにしへの尾上の鐘に似たるかな岸打つ波の暁の声
いにしえの おのえのかねに にたるかな きしうつなみの あかつきのこえ
昔娑婆世界で聞いた山寺の鐘の音に似ているなあ。暁方、極楽浄土の七宝池の金の岸に打ち寄せる波の音は。
1969 静かなる暁ごとに見わたせばまだ深き夜の夢ぞかなしき
しずかなる あかつきごとに みわたせば まだふかきよの ゆめぞかなしき
毎日、早朝に煩悩をさり無我の境地で世界を見渡すと、無明の長夜の深い闇に沈んで迷妄の夢を見続けているのが悲しい。
1970 逢ふことをいづくにとてか契るべき憂き身のゆかむ方を知らねば 
おおことを いずくにとてか ちぎるべき うきみのゆかん かたをしらねば
観世音菩薩にお逢いすることを何処で約束すればいいのでしょうか。この憂き身が死後逝く世界のことが分かりませんから。
1971 玉懸けし衣の裏を返してぞおろかなりける心をば知る
たまかけし ころものうらを かえしてぞ おろかなりける こころをばしる
釈迦如来が宝珠を懸けてくださった衣の裏を返して、宝珠に気付き、自分が愚かであったことを知りました。
1972 夢や夢うつつや夢とわかぬかないかなる世にか覚めむとすらむ
ゆめやゆめ うつつやゆめと わかぬかな いかなるよにか さめんとすらん
夢は本当に夢なのか、それとも現実が夢の中にいるのか、はっきり分かりません。いつの世になるとこの迷いから覚めるのか。
1973 常よりもけふのけぶりのたよりにや西を遥かに思ひやるらむ
つねよりも きょうのけむりの たよりにや にしをはるかに おもいやるらん
釈迦が涅槃に入られた2月15日の今日の荼毘の煙を機縁として、いつもよりも西方浄土を遥かに思いやっておられるのでしょうか。
1974 けふはいとど涙にくれぬ西の山思ひ入日の影をながめて
きょうはいとど なみだにくれぬ にしのやま おもいいりひの かげをながめて
涅槃の日の今日はいっそう涙にくれて過ごしました。西の山に入る夕日を見つめて、遥か彼方の西国浄土を思いながら。
1975 西へ行くしるべと思ふ月影の空頼めこそかひなかりけれ
にしへいく しるべとおもう つきかげの そらたのめこそ かいなかりけれ
西方へ往生する道しるべと思っています西行さんが期待外れで差してこないのは頼りがいのないことです。
1976 立ち入らで雲間を分けし月影は待たぬけしきや空に見えけむ 
たちいらで くもまをわけし つきかげワ またぬけしきや そらにみえけん
貴方の家に差し入らないで、雲間を分けて移って行った月の光は、あなたが月を待っていない様子が空にも見えたからでしょうか。
1977 昔見し月の光をしるべにて今宵や君が西へ行くらむ
むかしみし つきのひかりを しるべにて こよいやきみが にしへいくらん
昔見た月の光(法華経の教え)を道しるべとして今宵あなたは西方浄土に往生するのでしょうか。
1978



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